日記
生き方間違ったかなと思う時
有難いことにご縁があって終活セミナーのご依頼があり、
今週は資料作りをしておりました。
最後に過ごしたい場所や
会っておきたい人や
自分らしい人生の締めくくり方を考えることは
今までの自分の生き様と向き合う事に他ならず
これが私にとってはとてもきつい作業で。
「ああ、私の生き方間違ってたかな」と
何度となく思う事しきりです。
ではなぜ私が終活に拘るかというと
「いざ」という時に
自分の意思をしっかり伝えられる手段がなかったら
自分らしい締めくくり方は望めないのだなと
思う機会があったことと
自分の望む締めくくり方をするためには
今何をするべきか?
と考えることはこれからの私の人生にとってとても重要な事だからです。
「For the rest of my life.」
今何をするべきか?です。
資料作りをしながら、
自ら命を絶つ人たちのことや
ウクライナのことや
中東のことや
色々な「命」についつい思いを馳せてしまいます。
「命」の重みを実感することが難しい世の中だなあと思います。
数年前他界した母は厳しい人で
実は私はあまり可愛がられた記憶がありません。
笑顔もあまり見せませんでした。
ですが、
幼いとき、夜中に高熱を出した私を負ぶって病院まで一生懸命走ってくれた母の背中や
仕事で残業続きだった私がとうとう過労で寝込んだときに
心配して電話をくださった会社の先輩に泣きながら「このままだったら娘が死んでしまいます」と何度も訴えたという話を
先輩から聞いたときのことや
そんな記憶はしっかり残っていて
私の「命」をそんなふうに紡いでくれた母の事を思うと
今までの生き方間違ったかも知れないけれども
なんとか修正しながらこれからは私の望む生き方を貫いて
天寿を全うしないと申し訳ないと思うのです。
そんな「根っこ」があるうちはこの世界の片隅で
なんとか前を向いて生きていける気がします。
間違いに気づいたら、そこからやり直せばええんや。
時間はまだ充分あるで。
と母に言われている気がします。
小さなことからコツコツと
秋ですね。
有難いことに酢橘を沢山頂いたので
酢橘を絞ってめんつゆで割って即席自家製ポン酢を作ったのですが、
これがほんま美味しいっ!
頂いたときは「こんなにいっぱいどうすればええねん!」と実は心の中で困っていた私。
(ごっごめんなさい)
で、「酢橘 大量消費」でネット検索して悩んだ挙句ポン酢を作ったのですが
(ただ酢橘を絞って市販のめんつゆで割っただけなんですけどさ)
頂かなかったらこの感動的な味に出会わなかったわけで、
些細な事ですがこういうことって尊いなあと思います。
口下手でなかなか自分の意見をきちんと伝えることができない事を悩んでいる青年と
向き合う機会が最近あるのですが、ある時こんなことを言いました。
「このあいだ空を見あげた時「空青いなあ」とつい言ったんですよ。
なんで空を見て「空は青い」と言えたのかって考えた時に
僕は空という言葉や青いという言葉を知っているからこそ自分の気持ちを正しく伝えることが出来ることに気づいたんですよ!
僕は言葉を知らなさすぎるからなかなか自分の意見がきちんと言えないことに気づいたんですっ!」
と目をキラキラさせて言うわけです。
「おお!そのことに気づいた○○君におばちゃん感動したわっ!
そういう君のことを一般的に「語彙力がない」と言うけれども、
語彙力をつけるにはどうすればいいと思う?」
と聴くと
「うーん。。そこなんですよねーっ」
...。そこかあ。
「せっかく仕事の勉強するために何冊か本買ったということなので、
しっかり読み込んでみるところから始めてみるのはどうだ?」
と言うと、
「僕本読むと頭痛なってあかんのですわーっ」
お、おまえ。。
「最初は1行だけ読んで内容を理解したら次の行を読んでというように進めたらいいと思うよ。
最初はしんどくても内容がわかってくるとだんだん楽しくなってくるよ、きっと!
小さなことからコツコツと!やで!西川きよしやでっ!」
と大阪のおばちゃん丸出しで「ええこと」言ったわけですが、
「え?西川きよしがなんで「小さなことからコツコツと」なんすか?」と青年。
あ、そこ?
なかなか道のりは遠いけどまずは1歩、「なりたい」自分に近づくために
自分の意見をきちんと伝えられる自分に近づくために
踏み出そうよ、青年。
おばちゃんも君の力になれるようにコツコツと頑張るからさ。
呪文なのか
3連休ですが、大阪は雨。
金曜日にコロナワクチンを接種した私。今回は結構熱も出て倦怠感もあり土曜はほぼ1日臥せっておりました。
今日も少し怠くファイザー製のワクチンでしたが今までで一番副反応が強く出ているような。
先日「ミステリーと言う勿れ」という映画を観てきました。
私は原作本からのファンで、主人公久能整君が紡ぎだす言葉の数々に心が救われることもしばしばです。
今回も胸を打つ言葉の数々に溢れていました。
まだご覧になる方もいらっしゃると思うので内容については敢えて触れませんが、
この映画に限らず日々色々な事に接する中で最近強く思っていることがあります。
まだ固まっていない子供は、絶対的な力を持つ大人次第で簡単に傷つきます。
抱きしめてもらえず傷けることしかされてこなかった子供は
傷けることしか知らないから傷つけることでしか人とつながることが出来ない。
それが正しいと信じているので、自分が間違っているとも思わない。
あるいは、これではいけないと頭では分かっていても、自分ではどうしようもない。
傷つける事でしか自分を守る術を知らないのです。
もしまわりにまだ固まっていない子供が居たら
人は刺すものではなく抱きしめるものなんだよと
どうか、抱きしめてほしいと切に思います。
映画の中で少し引っかかったのが
「(家庭に入り子育てするのが)女の幸せ」を言い出したのは多分おじさんで
女の人から出た言葉じゃきっとない。女性をある型にはめるための呪文です」
というセリフがあり、「世の中に残っている言葉はおじさんが言った言葉がほとんどで
そこには趣味と都合が隠されている」
「自分の中から出た言葉を使ってください」と続きます。
私が小さなころは両親共働きで日中子供だけしない家は珍しい時代で、
「お母さんが家に居て子供の面倒を見る」のが当たり前の時代で
学校を卒業したら花嫁修業をする人は「家事手伝い」という肩書を持ち
「就職したとしても2,3年のうちにいい人を見つけて結婚すること」というのが
既定路線でした。
この路線から外れると
「みっともない」ことになり、
「早く嫁に行って幸せになってほしい」とやいやい言っていたのは
父親ではなくむしろ母親でした。
皆さんの御家庭ではどうでしたか?
勿論そういうふうに「良妻賢母」と言われることがそれこそ「女の幸せ」だと
小さいころから言い聞かされてきて(教育されてきて→洗脳されてきて)いたのでしょうが、
そしてその価値観はおじさんたちが作ってきたものなのかも知れないのですが
そのように言ってきた女性たちは
自身の経験から「自分の中から出た言葉」で語っていたのではないでしょうか?
ここにその時代の教育がもたらす価値観の怖さがあると思うのです。
どう思われますか?
機会があれば是非ご意見を聞かせてください。
なりたい自分とありのままの自分と見せている自分
まだまだ油断できませんが朝夕は過ごしやすくなり、しっかり秋の足音を感じるようになりましたが、
夏のお疲れはありませんか?
最近南瓜やさつま芋がとても美味しく、
今日は久しぶりの休みなのでさつま芋ご飯や
最近嵌っている5分ほどレンジでチン→少しのお砂糖とごま塩で味付けするしてバターで炒める南瓜のソテー(これほんま一生食べ続けられる)をはじめ
沢山沢山作りおきをしました。
やっぱり私食欲の秋なんですよねー。。
やっぱりねー。
つい昨日「太ったね」としみじみ言われたばっかりで
人生何度目かのダイエット宣言したばかりなのに。。
...。
やっぱりね。。やっぱりね。。
今の自分は好きですか?
まだ固まっていない頃は不安定だけれども、可能性がいっぱいあって
吸収することもいっぱいあるのですが、
「なりたい自分」と今の自分とのギャップに圧し潰そうで
不安でいっぱいだったなあと今振り返ると思います。
なりたい自分と見せたい自分と見せている自分。
自分自身の姿はどうやって見るか?というと
姿に関しては鏡に映したり、写真や動画を見たりでしょうか。
それにしても鏡に映る自分と写真に写る自分はどうしてあんなにギャップがあるのか??
玄関の鏡の中の自分を見て「お!今日はまんざらでもないかも!」とご機嫌で外出しても、
ふとショーウィンドウに映る自分を見て
「なに?!!このもっちゃりしたダサいおばさんっあ、私かっ!」となり
なんとも切ない気持ちになることがしばしばございます。
何故なのかっ!
玄関の鏡には私しかおらず、比較するものがないので自己満足の世界に留まって居られるのですが、
外の世界に出ると私よりセンスのいい人、スタイルのいい人、綺麗な人がいっぱい溢れていて
嫌でも自分の現実と向き合うことになるわけです。
そして人と話をしたり仕事をしたり遊んだりすると
「世の中にはなんて自分より優秀な人がいっぱいいるんだ!」
ことを知り何とも切ない気持ちになるわけでございます。
でもかの心理学者アドラーが言っているように
人は「こうなりたい自分」があり、今の自分はそこに到達していないからこそ劣等感をもつわけで、
むしろ劣等感を持つことは人としてはとても健全だし必要な事だと思います。
と、これは私の価値観で言っていることで
だから自分の価値観と合わない(コンプレックスなんて微塵もないわ。私の言うことは絶対正しい。だから教えてあげないと!)という人と接するとものすごーく嫌な気持ちになります。
だからその人を敬遠するようになり
「あの人が居るから会社に行くのが嫌っ!」の「あの人」になってしまうわけですが。
そして「あの人」は人によって違うわけです。
でも「あの人」が「見せている自分」は本当に「あの人」が見せたい自分なのか。
もしかするとずっと認めらたいのに認めて貰えてこなかったから
あんな風に虚勢を張ってしまうのか。
と考えて「あの人」を見るようになると
「ついつい自分の意見を押し付けてしまう」のは親切心から言っており
その表現の仕方が下手なだけなのかもしれない
なんて気づき
「まあ鼻につくけど許したるか!」
と思えるようになるかも知れません。
「なりたい自分」と「ありのままの自分」と「見せている自分」
そしてもしかすると「見せたい自分」
ギャップがありますか?
「そもそもなりたい自分もありのままの自分も見せたい自分も見せている自分もよくわからない!」
という方、是非キャリアトランプ🄬でまずは「自分さがし」から始めてみませんか?
(私はキャリアトランプ🄬で人生が変わったので突き詰めたいと思い講師になりましたの)
興味のある方是非ご一報ください!
スタバを選ぶ理由
昨日大阪駅周辺で色々用事を済ませていたら、「祭りかっ!」と思うほど人が溢れていて
どうも阪神の優勝で百貨店や商業施設が優勝セールやらポイント5倍デーやらで
いつもよりかなりの人出だったようで。
帰りに阿倍野ハルカスに寄ったらオリックス優勝セールで色々なお店で行列が出来ており。
電車に乗ろうとしたらB’Zのコンサートがヤンマースタジアム長居であるらしくかなり混んでおり。
...。
大阪はなにやらとても活気づいております!
街中で一息つきたいとき、私はスターバックスに入ります。
今や街中に溢れているということもありますが、
スタバを選ぶ最大の理由は「どの店に入っても嫌な思いはしない」ことにあります。
よほど接客に対する教育が行き届いていないと、
なかなかここまでできないだろうなあといつも感心します。
(あくまでも個人的感想です)
例えばこれから年老いて、どこかの施設に入らないといけなくなったとき
例えばお子さんを保育園などどこかの施設に預ける必要ができたとき
何を基準に選びますか?
需要と供給の問題で選択は限られてくるかもしれませんが、
もし自由に選ぶことが出来たら
私は属人によるものではなくシステムがしっかりしていて
どの介護福祉士や保育士が担当してくださっても同じようなサービスを提供してくれるところを選びます。
ただ、カフェやレストランのように「どの店に行っても誰が接客しても均一のサービスが受けられる」かどうかは見分けがつきやすいですが、
介護施設や保育園はなかなか難しいですね。
色々な施設を見学し、しっかりと自分の目で判断することがとても大切ですが、
色々な人の話を聴いて違った視点で考える事も重要な選択をするためには必要な事だと思います。
そのためには話しやすい人でなければなかなか難しい。
「この人と話してよかった」と思う人でなければ、なかなか本音の話はできませんもの。
賢く生きていくためにもコミュニケーションスキル、
本当に重要!
とにこやかに「今朝は過ごしやすくていい朝ですね!」とコーヒーを出してくれるスタバのイケメンスタッフにぼーっとしながらしみじみ思う秋の始まりでございます。
よろしければこんな私と是非コミュケーション技法、一緒に学びませんか?
興味のある方、是非ご一報くださいませ!