日記

2025-12-21 11:00:00

後悔するよ人間だもの

あっという間に年の瀬ですね。

 

最近は「今年どんな1年だったのか?」と振り返る会話が増えています。

何故か今年は「散々な一年だった!」という方が周りに多く

「あまりにもひどいので今まで信じていなかったけれど

占いにいくと今年は最悪の年(天中殺?大殺界?みたいな)だそうで来年2月以降に抜け出せるといわれた」

という方が居らっしゃり。

そのことを「今年はひどい年だった」という人にお話しすると

即座にスマホに自分の生年月日入力し占い検索する確率今のところ100%。

 

その気持ち痛いほどわかりますで。

 

私はというと、「やらなかった」事が多すぎて今ぐじぐじ後悔しています。

「こんな筈じゃなかった!」という感じでございます。

 

日々私たちは何かを選択していますよね。

例えば朝起きて今日着ていこうかなから始まり、

時には大きな決断を迫られることもあります。

 

知らず知らずのうちに私たちは無数の取捨選択の中で生きているわけで。

 

その時は勿論正しい選択だと思っているのですが

あとで振り返った時に

「あの時こうすればよかった」と後悔すること。

私は多々あります。

今の私ならこうするのに!とか。

何であの時あの人の忠告を聞かなかったのだろう!とか。

 

時は戻らず取り返せない。

 

でもね。

「あの時の私は、あれが精いっぱいだった」んですよね。

 

そしてその選択の結果、今は辛い状況になっていたとしても

挽回できる時間はまだまだあり、「間違った」選択だったと

ジャッジするのはまだまだ早い。

 

あの時のあなたはあれが精いっぱいで

生きている限りまだまだ挽回できる時間はある。

 

その時の選択を笑って振り返ることができるよう

お互い頑張りましょうぜ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025-12-14 01:16:00

距離

如何お過ごしですか?

私はずるずると後回しにしていた年内の不燃ごみ出しのために

家の片づけを昨日から始めているのですが

なかなか気乗りせず進まずで、トホホな状態です。

要不要のジャッジをするのが苦手で

「要らないものを捨てる」のが私にとってはとても難しい。

ちゃちゃっと断捨離できる人、尊敬します...。

 

価値観は人それぞれで、

自分の価値観からすると

「間違っている」

「許せない」と思う人も居るわけで。

あなたたから見ると「明らかに間違っている行為」は

その人の価値観からすると

「正しい行為」で

非難するあなたは理解できない。

これが職場であれば、あるいは家庭であれば

人間関係、しんどいですよね。

衝突も起こります。

 

そんな時大切なのは

「相手に引きずられず、冷静な距離を保つ」ことなのだと

自分自身に言い聞かせております。

 

本人は一生懸命なのですが

同じようなミスを繰り返し

その尻拭いをまわりの同僚がせざるを得ないことが

日常茶飯事なのですが、

そのことに対して「申し訳ない」という気持ちが伝わってこない

というAさんがいたとしましょう。

尻拭いが常態化している同僚達はどんな状態かというと

その人に優しく接することは難しく冷たい態度になることは

想像に難くありません。

これは価値観の違いというより、

Aさんによって余計な負荷を被っている人達が感じる

不公平感、そして何度説明しても注意しても

改善されないことへの疲弊や怒り、

あるいは諦めも入り混じっているからこその

態度でしょう。

 

Aさんは本人なりには頑張っているのですが、

学習し改善することが構造的に起きておらず

周囲の負担に対する想像力が弱いのかもしれません。

 

あなたがその職場に居たとしたらどうでしょう?

私はきっとその場にいるのがしんどいだろうなあと思います。

 

なんとかしたいと思うかもしれません。

間違いなくAさんは能力不足で「職務を果たせていない」のですが

本人は一生懸命で「悪意はない」こともわかるのです。

そしてまわりの同僚の気持ちもとてもよくわかるというより

あなた自身も被害を被っていて腹立たしくも思っているのではないかと思います。

だからしんどい。

 

でも大切なのは「相手に引きずられず、冷静な距離を保つ」こと。

Aさんは悪意はないが「職務を果たせていない」のは事実。

 

ミスを見つけたら、本人に戻しできれば一緒に確認する。

でもAさんの能力不足は私の責任ではない。

だからといって感情で訴えるのではなく

どのようなミスがあり、どういうフォローをして

そのために負荷が高まっている事実を

職場全体の問題として上司や管理者も含め共有することが

あなた自身が擦り減らないためのまっとうな手段だと

思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

2025-12-07 00:00:00

頑張りすぎる人(その2)なぜ特定の人だけに負荷が集中するのか

前回最後に「頑張りすぎる人は報われにくい」で終わりましたが、

紐解いていくと「なぜ特定の人だけに負荷が集中するのか」

が見えてくるので少々お付き合いください。

 

また前回「条件付きの付加価値」の話をしましたが

人の努力は「特定の条件が揃わないと価値として見えない」もの。

例えば

いつも周囲をフォローしてトラブルを未然に防ぐ人は

問題に起きないように頑張るので

「問題が起きなかった」状態だけが見えるので

その人が不在が故に

トラブルが発生したときだけにその人の価値がやっと見える。

 

あるいは逆に目に見えて頑張って成果を出し続ける人に対し

 周囲はこう思うようになります。

「あの人ならやってくれる」

「あの人ならこれくらいは簡単でしょ」

「頼りにしてる(=無償で追加負担を求める)」

 頑張りが当たり前になり、本人の努力が「見えない価値」となります。

 

そうなると

周囲には価値が見えない評価されない

頑張っているのに報われないさらに頑張る

となり、条件付き付加価値に依存した組織構造が固定化し

悪循環が発生し
「仕事をやった人がさらに仕事を任される」
となるわけです。

属人化(特定の業務やノウハウが特定の個人に依存している状態)色の濃い組織では

それが日常ではないでしょうか。

頑張り過ぎる人は、「頼まれた=やるべき」と思いがちですが、
それこそが「条件付き付加価値の罠」です。

 

頑張りすぎる人はどうすればよいのか?

まずは「責任の境界線」を明確にすることが大事だと思います。

自分がいっぱいいっぱいな時に

なにか頼まれ事をされたとしましょう。

その頼まれ事は自分のやるべきことではなく

本来他の人がやるべきことなんじゃないか

とあなたは思っていたとします。

あなたはその人に嫌われたくないから「断れない」

自分が断ることによって迷惑を掛けたくない

断ると自分の評価が下がるのが怖い

人に任せるのが不安

のだとしたら

無意識に「越境」していることに気づくことが

重要です。

まずは自分自身の責任の範囲を整理するために

これは本来誰の仕事なのか?

その判断をする権限は誰にあるのか?

を考え

もし引き受けた場合の

メリットデメリットを冷静に考えることが

相手にとっても自分にとっても大切なのだと思います。

 

相手の責任は相手にある

私の選択の責任は私が持つ

相手の期待に全て答える義務はない

自分の限界を伝えることは失礼ではない

 

 

もしあなたが「頑張りすぎる」「抱え込みやすい」傾向があるのだとしたら

「できるからやる」ではなく

 

「自分がやらなくても物事は回る」という感覚を育てることが

大切なのだと思います。

 

 

 

 

 

2025-11-30 00:00:00

頑張りすぎる人(その1)

あなたのまわりにいますか?

頑張りすぎる人。

実はあなた自身がそうですか?

 

もしあなたのまわりに「頑張りすぎる人」がいたとしたら

どうでしょう?

頑張っているなあと思いながらも

そんなに頑張る必要がないのに

とちょっと冷めた目で見ているのかもしれません。

頑張りすぎてもそれほど報われないのに。

 

頑張りすぎる人はどうして頑張りすぎるのか?

実はかつて私、そうでした。

私の場合は長らく母一人子一人でしたので、

生活への不安からだったように思います。

 

頑張りすぎる人の背景を考えるとき

よく言われるのが

・条件付きの付加価値

・安心や安全のための「過剰な戦略」としての頑張り

・期待に応え続ける「良い人」の役割が習慣化している

・ミスや中途半端、他人に頼ること等人に迷惑をかけることが怖さや罪悪感につながりやすい傾向がある

等々。

また、感情や疲れに鈍感で「このくらい大丈夫」と自分の限界を過小評価する人も。

気づいたときには心身が限界ということにもなりかねません。

 

心当たりありますか?

 

この中にある「条件付きの付加価値」とはなんなのでしょう?

「〇〇できたときだけ価値がある」

「特定の条件が揃わないと価値として見えない」

具体的には

「役に立てない自分には価値がない」

「成果を出さないと嫌われる」

「迷惑をかけると嫌われる」

休むと価値を失うと無意識に感じてしまい、常に頑張り続ける方向に自分を追い込んでしまいます。

 

そして「安心や安全のための「過剰な戦略」としての頑張り」は

「役に立っていれば嫌われない」

「役に立っているうちは安全」と

頑張りすぎが安心を確保する方法

頑張る=身を守る手段

というわけです。

 

でも頑張りすぎる人は思いのほか

「報われにくい」

 

(次回に続きます)

2025-11-02 18:21:00

和を以て貴しと為す

 

先日とあるイベント会場に向かうエレベータに乗った時のこと。

タイミングよく閉まる直前のエレベータに乗れたのですが

エレベータは満員。

エレベータ内はほぼ同世代の女性で

一人だけ20代位の女性がボタン近くにいて

6階のボタンを押したので

7階で降りる一番ドアに近い場所に立っている私は

「私は7階で降りるのでどうぞ」

と場所を変わろうとすると

ツーンとしたまま一言も発せず私が譲った場所に移動。

人間が出来ていない私。

思わず「感じ悪っ!」

と声に出して言ってしまいました。

丁度6階に着いてその若者が降りるタイミングで言ってしまい

聞こえてしまったかどうか微妙でしたが。

 

6階のドアが閉まった瞬間、どなたかが声をあげて笑われ。

それをきっかけに「ほんと、感じ悪かったわ!」

と口々に。

「乗った途端、開くボタンをひっきりなしに押してやな感じだったわよ!」

と。

たった数秒でエレベータ内に妙な連帯感が生まれ、

私の心は穏やかになっていったのでした。

 

でも視点を変えてその若者から見ると

おばちゃんの集団を嫌悪するような嫌な経験があり

毛嫌いしているおばちゃん達に囲まれ耐えらないような心理状態だったのかもしれません。

あるいは、とても急いでいて焦っているのに次々と人が乗り込んできて

苛々していたのかもしれません。

もしかすると私の言動は押しつけがましく感じたのかもしれません。

 

一方、私はというと気を利かせて「彼女のために」行ったことに対し

彼女からなんらかの感謝の気持ちを示す行為を当然のこととして

(ありがとうと言葉にできなくても、軽く頭を下げるとか)

意識はしていませんでしたが期待していたのでしょう。

ツーンと無視するような態度に私自身が見下されたような気持にもなり

思わず声がでてしまった、というところでしょうか。

 

今回、彼女のとった態度は私から見ると

「感じの悪い」ものでしたが、

私が取った行動も大人げなかったように思います。

でもその場にいた大半の人は彼女の行動を不快に思い、

私のとった行動に共感したわけで

今回のケースはちょっと意味合いは違いますが

ふと頭をよぎったのは今回のような連帯感と同調圧力の違いです。

 

私が通っていた高校は聖徳太子建立のお寺の学校法人で、

登校時には校門をくぐるとすぐ目に入る

「和を以て貴しと為す」という聖徳太子の17条憲法にある言葉を

眺めながら校舎に向かっていました。

 

この言葉をどう解釈するかですが、

「調和」や「協調」という言葉を思い浮かべませんか?

 

古くから日本では 

個人よりも集団の調和を優先する。

意見の違いよりも空気を読む行動が評価されやすい。

対立を避ける穏やかさが美徳とされてきたのではと思います。

 

だからこそ、私が感じた「連帯感」は

個人が組織や集団の価値観や意見、行動様式に合わせるような心理的な圧力

「同調圧力」とかなり近い位置にいるんですよね。

紙一重とも言えます。

 

本来「連帯感」は共感や支え合いの感覚であり、強制ではなく内発的な「つながり」であるはずが

協調性を強要する心理的圧力になりかねない。

 

では組織においてはどうでしょうか?

連帯が強く同調圧力が緩やかな組織では

 

「多様な意見が共存する協働型」組織が育ち

同調圧力が強く連帯が弱いと「恐怖による秩序」が生まれ、

心理的安全性(異論を述べても罰せられない環境)が保てず、

離職やメンタルヘルスの不調へとつながることは

想像に難くありません。

 

 

最近は

テレワークや副業解禁で「組織内のつながり」が弱まりつつあり、

個人の価値観やワークライフバランスを重視し

心理的安全性や多様な人材を活かすダイバーシティ経営への意識が高まってきているので

「同調」よりも「尊重」

「和を乱さないこと」よりも「多様な意見を和として活かす」ことが

「和をもって貴しと成す」なのだという価値観にシフトしていくことが

これからの日本にとって重要なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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