日記

2025-05-11 19:19:00

鏡の中

今日は母の日。

 

今日の大阪の天気予報は昨日まで雨だったのに

見事に晴れて洗濯物が乾く乾く!

空も母親孝行してくれたのかもですね。

 

私はというと、空の彼方にいる母に

毎年カーネーションの花束を贈っています。

最近は色とりどりのカーネーションがありますね。

薄紫の花はカーネーションのようですが、

トルコ桔梗とのこと。

IMG_7117 (002).jpg

 

先日とある人気の店でランチを食べたのですが、

店員の対応が宜しくなく、

あまりにも腹立たしく最後のお茶とお菓子が出る前に席を立ちました。

 その時にちらっと窓ガラスに映る我が身をみて愕然としました。

 

なんて醜い姿なんだ。

 

怒りで顔が歪んでいました。

 

 

あの時見た窓ガラスに映った自分は

鏡の中の自分とは似て非なるもので

まさに「他人からみた自分の姿」

 

鏡を見るときは知らず知らずのうちに

「いい顔」してますものね。

 

自分の姿はこうして確認することはできるけれども

自分が他人から「どういうふうに思われているか」

はどうすれば知ることが出来るのか?

その前に

そもそも知ることはとても勇気のいることですよね。

 

 

最近の若者は自分の悩みをAIに相談するのだとか。

悩みを解消してくれるような答えは出してくれないけれど

話し相手になってくれるし、

何を言っても嫌らわれることもなく

傷つくこともないからということのようです。

 

 鏡の中に居るうちは

傷つかないけれども本当の自分の姿を知らないままで

外に出て

他人と話をして他人を理解しようとしたとき

自分を知ってもらおうとするとき

愛されようと思うとき

痛みを伴うし

耐えられないと逃げ出したくなることもあるけれども

「自分のこと」を正直に話すことが

「助けて」とAIではない誰かに話すことが

生きていく上でとても大切なことなんだということを

まだセメントが固まっていない子供たちに

知ってもらう事が

日本の未来にとても必要な事だと思います。

 

誰がそれを教えるのか。

教師なのか、親なのか。

 

まわりにいる全ての大人達だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025-04-20 17:00:00

知らず知らずのうちに

先日同じマンションに住む小学校の教師をされていらっしゃった方と立ち話をしまして、

今から10年ほど前に母校の先生をされていたことがわかり

その時凄く「荒れていた」事を知り衝撃を受けました。

(今は退職されていて状況はよくわからないそうですが)

 

私が小学生だったのは遥か昔のことですが、

綿織物の盛んな町で、近所の家のほとんどが自宅の横に工場をもって

朝から晩まで「織物を織る機の音」が響いていました。

ちょっと山に入ると畑や田んぼが広がって

貧しいながらものどかな町で、

今思うと多少の貧富の差はありましたが、

同級生は同じような価値観の中で育っていたように思います。

だから「いじめはなかった」というとそうではなく

やんちゃな男の子達は「弱い者いじめ」をしていました。

1人ターゲットになっている男の子がいて

幼稚園が一緒で近所だったこともあり、

幼稚園の頃はその子のおうちに遊びによく遊びに行っていました。

 小学校に入り、

私はなんというか「勉強ができる優等生」になり

「一目置かれる」ことが「一番大切」なことだったので、

その子と「仲良し」だと思われることが怖く、

口も利かないし「いじめられている」事を知りながらも

見て見ぬふりをしていました。

その子はやがて所謂「知的障害特別支援学級」に入り、

私はほっとしたことを憶えています。

 

私最低でした。

最低でしたが、その頃はなんと言いますか

「自分の居場所を作ること」に必死で

「生きていくのに必死」だったように思います。

 

何故母校が荒れていたかというと、

どんどん開発が進み住宅やマンションが次々と建設され

新旧の住民が混在する形となったので

育った環境が大きく異なる色々な価値観を持つ児童が混在することになったことで

大きくは「地元民」と「新住民」の対立があったとのこと。

 

大人でも色々あるのに子供ともなると況やです。

 

今新しい環境に慣れずに、四苦八苦されていらっしゃる方も多いのではないかと思います。

私達は知らず知らずのうちに色々なもの、他人を自分の基準で比較してしまいます。

自分と他人との比較をまず無意識に行ない

自分が優位であると感じた時

人間関係の構築が出来ていない環境では特に

自分の居場所を確保したように思い、

承認欲求が満たされ

漠然とある不安から少し解放されて、安心して息をすることが出来る。

そして、知らず知らずのうちにまわりを

同僚や

家族や

友人や

上司や

組織そのものを過小評価し

優れている自分はジャッジしコントロールする資格があると思う。

 

そんな人、周りにいませんか?

いますよね。

実は私自身、そんな人でした。

「ああはなりたくないようなあ」と思いながら

知らず知らずのうちに

「ああはなりたくない人」になっていて

「周りに誰も居ない」ことに気づいたのが数年前です。

 

もし

「人には色々な考え方があり、価値観がある」こと。

そのことを理解し、受け入れることが出来ていれば

そして自分の価値観で

自分の稚拙な、勝手な基準で優劣をつけることが

どれだけ愚かな事なのかに早くから気づいていれば

私の生き方は大きく変わっていたのだと思います。

 

でも自分と違う価値観の人を受け入れる事は

特に大人になってからは

とても勇気がいることだし本当に難しい。

 

あの幼い日、仲良しだった男の子は

いじめられながらも決して私に助けを求めることはなかったし

話しかけもしなかった。

 まだ男の子のうちに遊びに行くほど仲が良かったころ、

その子には歳の離れたお姉さんがいて

 お昼にオムライスを作ってくれたことがありました。

 

そのオムライスにはチキンとグリンピースが入っていて

綺麗に整えられた卵の上にかかったケチャップが嬉しくて

色々なところでオムライスを食べてきたけれども

あの味を超える「美味しい!」と思えるオムライスにはまだ出会えていません。

 

あのオムライスを作ってくれたお姉さんの気持ちを

幼い私は知る由もなかったけれども

今なお、オムライスを食べる度に

後ろめたいような苦い感覚とともに思い出します。

 

今の若者は概ねジェンダーに対する偏見はなくなっているそうで

それは幼いころから偏見のない世界の中で生きてきたからだと思います。

「多様性の理解」という言葉はまだまだ紛争が絶えないこの世界では白々しく思うけれども

「みんな違ってみんないい」環境の中で育てば

いつの日か本当の意味でダイバーシティが体現され、

お互いに尊重し合える安心安全の場を気づくことが出来るはずです。

 

あの幼い日には戻れないけれども、懺悔をこめて

 「みんなと違っている」ことで悩んでいる人が笑顔になってくれるよう

「違っていい」ことを命ある限り伝えていきたいと思います。

 

だけどきっとオムライスを「美味しい!」と笑顔で頬張る日はこない。

それを認めることが私にはとても重要な事なんだと思います。

 

 

 

2025-03-02 12:54:00

誰もが怖いと思っている

3月です!

 

ある若者との会話。

「今年の目標は英会話とヨガを始める事なんやけど、どちらもまだ始めてないわ!」と私。

「大丈夫です!まだ今年は始まったばかりです!」と若者。

「いうてももう3月やで。」と私。

「あ、ほんまや!

今年の終わりに「始めようと思ってたらあっというまに年末や!来年の目標にしよう」と私に言うてはる姿が目に浮かびます!」 

 

うっ...。

 

♪いっぱい聞けてぇいっぱい学べるぅ♪

とりえず駅前留学しようかなぁ..。(まだあるんかなぁ)

 

先週報告しました「ウォシュレットのノズル」故障の件。

ノズルから水が出なくなることは結構あるらしく、

ネットで検索すると対応方法が沢山でてきて「おお!助かった」

とひとつひとつやってみましたが解決せず。

これはいよいよTOTOに修理依頼かぁ。

と思いつつ諦めの悪い私、ノズル側の給水ホースの接続部周りを触っているうちなんと温水復活!

何が悪かったのか謎ですがもしかすると水抜きレバーを触っていたのかも.。

温水シャワーのノズルがでなかった時にこのことを思い出して下されば幸いでございます。

(だいたいはセンサーを綺麗に拭いたり電源のOFFONで解決するらしいですが)

 

 

「心が開くとき」がどんな時なのか。

カウンセリングをしていると明らかに「心が動いている」瞬間に立ち会うことがあります。

カウンセリングではなくても、日常生活の中で貴方も経験されたことがあるのではないでしょうか。

ある言葉がきっかけで表情がかわり、目に力がでてくる。

あるいはおいおい泣きだす。

泣くのを堪えながら一生懸命話し続ける人もいらっしゃったり。

今まで抑えてきた感情が堰を切ったように溢れ出てどうしようもないという感じでしょうか。

それは端的に言うと「誰もわかってくれない」苦痛や孤独の中、

「分かってくれる人がいたんだ」と思った瞬間ではないかと思います。

あるいはその言葉をきっかけに色々な事を思い出し、感情が溢れてしまったのかも知れません。

そこでやっと自分の居場所を得ることができるのではないかと思います。

 

同じ分野で、たとえば音楽や絵画や小説や。

医学や科学やスポーツの世界で。

同じ分野でより高みを目指している人から言われると

尚更だと思います。

 

坂本龍一が、癌に侵され余命いくばくともない頃

「ずっと音楽を続けていきたいとおっしゃっていましたが、その原動力は何ですか?

僕は苦しくて辞めたくなることが多いです」という若いアーティストからの質問に

「どれだけ作っても100%満足できるものができない。満足してしまったら終わりなんだけど。

上には上が限りなくあるので、どんなに頑張っても..。でもちょっとでも近づこうと、1歩ずつ階段を上るように努力するけれども、本当にきりがないほど上がいるので、一歩でも近づきたいというのはある」とおっしゃる。

 

「一流とはこういう人をいうのか」と私は感動するけれども

この答えを直に聞いたアーティストの心中はきっと、音楽によって生かされも苦しむこともしてきたからこその思いがあっただろうし、

今はもしかするとピンとしない言葉が何年か後に「わかる」瞬間があるのではないかと思うのです。

「こういうことだったのか」と。

 

ピアニストのマルティン・ガルシア・ガルシアが

 能登の高校を訪問し、難曲をやっと弾けるようになった途端に被災した生徒が

4か月ぶりにピアノに向かっても思うように弾けず

「ピアノに向うことが怖い」と言った時

「みんな平気な顔をしているけど、皆怖いんだよ。皆そうなんだよ」という。

 

高みを目指して自己研鑽を重ねてきたからこそ響く言葉に

その高校生はまだ心もとない感じだったけれども

きっとこの言葉が彼を後押ししてくれる時が来るのではないかと思います。

 

同じ職場で同じ分野の仕事をしていて壁にぶち当たった後輩に、部下に

同じ経験をしてきた貴方が掛ける言葉は

その時には響かなくても

いつか響く時がきて、それはきっと大きく心が動く時で、

その人が成長するときなんですよね。

 

この人は成長したいと願っている。

そう信じて関わることがその人の未来を作っていくのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025-02-09 21:00:00

失くしてはいけないもの

1月末神戸市東遊園地近くのお客様にお伺いしたところ、

丁度神戸ルミナリエ開催中で、点灯している作品を観る事が出来ました。

まだ外が明るいにもかかわらず圧倒される美しさ。

夜空の下での美しさは言わずもがなですね。

IMG_6887.PNG

そして一昨日、東遊園地を通るとせっせと解体作業中で

そういえばこの写真を撮った日は結構な人数の警備員が配備されており、

「運用資金はどうなっているんだろう?」と気になり、調べてみました。

 

開催経費は約5億円で、昨年から1部有料化されたようですが、東遊園地は無料で解放されており。

主な財源は企業の協賛金や企業募金、個人の方からの募金、来場者からの「一人100円」募金などだとか。

コロナで暫く中断していましたが、昨年から再開されたものの、

年々企業協賛金や来場者寄付は年々減っており財源確保には大変苦労されているようです。

昨年から一部有料になったこともあってか、昨年は来場者がコロナ前から3割以上減ったようですが、

従来のように順路の指定がなく自由に歩きまわることが可能となり、

会場を分散させるなどの工夫により、

会場周辺の飲食店などを利用する人も多かったでしょうから、経済効果も大きかったのではないかと思います。

 

そういえば若かりし頃一度だけ行ったことがあるのですが、寒い中大勢の人波に流されながら歩き続け、

最終目的地の東遊園地に着くころには疲れ果てていた思い出があり、

それから行かなくなったなあ。

今年たまたま作品を目の当たりにし、

こうやって調べて「ゆったりと自由に作品を楽しめるようになった」ことを知り。

来年はあらためて陽が落ちてからゆったりと作品を楽しみに行こうと思っています(しっかり募金してね)。

 

神戸ルミナリエは

「阪神・淡路大震災犠牲者への慰霊と鎮魂の意を込めるとともに、都市の復興・再生への夢と希望を託して、大震災の起こった平成7年の12月に初めて開催され、以来、震災の記憶を後世に語り継ぐとともに神戸の希望を象徴する行事として多くの皆様に支えられ、神戸の冬の風物詩として定着し、第29回神戸ルミナリエは約229万人もの来場者で賑わいました。」(神戸市HPより)とのことで、継続を望む声も多いとのこと。

  

「神戸ルミナリエ」が神戸の希望」の象徴であるならば、

勝手な思いですが是非絶やさないでほしいと切に願います。

 

自分にとって失くしてはいけないもの

大切にしているものが

他の人にとっては取るに足らないもので

それを失わないために必死になっている貴方を

知りもしないで笑う人がいたとしても

どうか失くさないで。

 

「失くしてはいけないもの」であることに気づかなかったために

失くしてしまって

それがどんなに大事なものだったのか

気づいたときには

取り返しがつかないのだから。

 

と思うのです。

2025-02-02 15:10:00

バタフライエフェクト

今週も色々ありましたね。

今回のフジテレビの件といい

韓国大統領の弾劾問題といい

兵庫県知事を取り巻く問題といい

事件発生、あるいは発覚後の展開に驚くことしきりです。

 

「たられば」はないし憶測でものを言ってはいけませんし、

あくまでも私見ですが、

今回のフジテレビの件で、

最初から会食に誘ったのがフジテレビの社員ではなく中居氏だったということが明確になっていれば

事態はまったく違う展開になっていたのではないかと思わずにはいられません。

 

このような企業に関わる事件が公になった際に思うのは

そこで生活のために、家族のために、自分自身のキャリアを高めるために

懸命に働く事件に関係のない人達のことです。

 

事実を正しく報道しないことが

どれほどの人にどれほどの影響を与えるか。

恐らく発信者が想像できないところにまで

影響を及ぼす可能性があることについての怖れを

報道、マスメディアに携わる人は十字架のように背負う覚悟が出来ている

と私達には信じているところがありませんか?

だからこそ、しっかりと裏取りが取れた報道しかしないのだと。

 

「バタフライエフェクト」という言葉をご存知の方も多いかと思います。

(TV番組の題名にもありますし)

 

そもそも「バタフライエフェクト」は

気象学者エドワード・ローレンツ

がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか?」という問い掛けと、

もしそれが正しければ、観測誤差を無くすことができない限り、正確な長期予測は根本的に困難になる、

という数値予報の研究から出てきた提言に由来する」(Wikipedia)らしく

NHKの番組「映像の世紀バタフライエフェクト」は

「蝶の羽ばたきのような、ひとりひとりのささやかな営みが、いかに連鎖し、世界を動かしていくのか?」をテーマに

「世界各国から収集した貴重なアーカイブス映像をもとに、人類の歴史に秘められた壮大なバタフライエフェクトの世界をお届け」する番組なのだそう。

 

蝶の羽ばたきのようなささやかな発言や行動が、

想いもよらない結果になることを

もしかすると誰かの人生を狂わせる可能性があるということを

こんなふうに簡単に誰でも情報発信できる今の世界にあっては

私達一人一人が充分に肝に銘じる必要があると

つくづく思ったこの1週間でした。

 

被害者にも加害者にもならないために。

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