日記
こうでなくっちゃ!
仕事や家事が一段落して、ついつい見てしまうYouTube。
癒されたりほっこりする動画を見てささくれ立った心を穏やかにしてから
眠りにつくようにしています。
なるべくストレスを溜め込まないようにするための
いわゆるストレスコーピング
(感じているストレスを軽減したり上手に対処したりするための行動や考え方の工夫)
として利用しています。
ストレスは避けられないものなので、自分なりの対象方法を工夫して
ストレスを「上手に扱う」ことが
自分の心の健康、メンタルヘルスにとってとても大切なこと!
ということで、私は毎夜毎夜YouTubeを見ているわけですが
最近よく観るのが国会中継の動画です。
こんなに政治を身近に感じる日がくるなんて、
つい数か月前までは思いも寄りませんでした。
だって私達の生活をなんとかよくしようと
与党が国を守ろうと練りに練った政策に対し
野党がしっかりと異論を唱え、
その異論に真摯に答え
修正すべきあるいは足らない部分を論議し
政策をより良いものにしようとする意欲を
私は感じますもの。
勿論、質問の立つ各党各議員は様々で
旧態然と政策に関係ないこと等や
筋違いの論点で貴重な時間を無駄にしているなあ
と思われる方もいらっしゃいますが(失礼)
こんなにも優秀な方だったのかと見方が変わった議員の多いこと!
そして皆様活き活きされていらっしゃる。
総理大臣(リーダー)が変わるとこんなにも変わるものなんですね。
こうでなくっちゃ!
何故国会中継が私のストレスコーピングになっているのか?
日頃の社会生活の中で抱えている言葉に明確にはできないけれど
色々な人に感じる「もやもや」する出来事に対して
「そうやないやろ!!」と理路整然と論破したいのにそれができない
もどかしさを払拭してくれているからのように思います。
私が思っている政治家の「あるべき姿」がそこにはあって、
職場や家庭や学校や地域社会や各々の環境での役割を
「上司はこうでなくっちゃ!」
「社長はこうでなくっちゃ!」
と思わせる位に担うことは本当はすごく難しいけれども
それを平然とやってのける人に対し
どう思いどう行動し
さらには未来の自分にどう活かしていくか。
「あの人についていけば大丈夫」と
過度の期待をし頼る前に、
「あの人のようになるにはどうすればよいのか」
とロールモデルにして
「私はこうでなくっちゃ!」と
自分が思うあるべき姿になるために何を今するのかを考えることが
未来の自分のために必要なことだと思います。
ここまで書いて思い浮かんだ言葉が
昔感銘を受けたアメリカのケネディ大統領就任演説の一文です。
Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.
この countryをcompany(会社だけはなく、仲間や組織、団体等の集まり)に
置き換えてみるとより身近な言葉として響くかと思います。
今の時代敬遠されるかもしれませんね。
勿論companyのために過労になるほど、あるいは死に至るほど
自分を犠牲にするなんて本末転倒ですが、
companyのために自分が何ができるのか問い行動を起こすことは
companyの成長に通じ結果的には自分が潤うことになり
ちゃんと自分に返ってくるはずです。
ただ、自分がいくら頑張っても響かないcompanyも
頑張る価値のないcompanyも
間違いなくあることも事実で
いずれそういうcompanyは衰退していきます。
それを見極めることも大切です。
お互いしっかり目を見開いて見極めていきましょう。
万博は脈々と続いている。
先日東梅田近くでの仕事の合間にお昼ご飯を食べようと、
大阪富国生命ビル近くのエスカレータから地上に出ると、何やら行列が。
行列を眺めがら私は近くのくら寿司へ。
注文の品がくる合間に調べてみると
どうやら大阪富国生命ビル1階にあるベルギーレストランに並ばれていたようです。
そのレストラン(というかパブ?)は
関西万博ベルギー館のレストランを運営されていたそうで、
美味しいと評判だったフリッツといわれるフライドポテトが
万博と同じLutosa紙で提供されていたりで
アフター万博巡りをされている方々にとっては
行かずにはいられない場所のひとつなんだろうなあ
ときつねうどん(なぜか無性に食べたくなったのです。美味しいんだ、これが!)
を啜りながら心の中で呟いておりました。
そういえば、あべのハルカスの万博オフィシャルストアの前を通ったら
えらい行列でしたが、
聞けばどのオフィシャルストアも未だ大盛況だそうですね。
イタリア館で展示されていたファルネーゼのアトラスなどが展示されている大阪市立美術館の特別展も
1月12日の最終日まであっという間に予約完売したそうで
今は並んでも入れないのだとか。
(行きたかったのですがとても残念!)
いやもう、これはいわゆる
「ポストイベントロス」
(大規模なイベントや楽しみな出来事が終了した後に経験する喪失感や虚脱感)
を感じている人の典型的な行動パターンですやん!
思えば準備段階での万博開催是非をめぐる議論から始まり
長期間報道や議論が続いた今回の万博。
特に何度も足を運んだ人は「万博が日常」となっていたといっても過言ではなく
体験した高揚感も相まって
閉幕したからと言ってすぐには平常状態に戻れるわけがない!
あの日常が終わってしまったためにできてしまった
空白を埋めたくて関連グッズや話題に
ついついしがみついてしまう。
イベントの名残を持ち続けることで
その時の体験を延命しようとしている一方、
「やり残したこと」 がまだまだあり、
その「やり残したこと」をやり遂げる可能性があるのなら
やり遂げたいという心理が働いているように思います。
参加する前のワクワク感や
実際に参加して未来の可能性を体感した時の高揚感は
万博という歴史に残る大規模な国家的イベントに
参加できたことでしか得られないものなので
余計に喪失感が大きいのかもしれませんね。
と偉そうに能書き垂れている私。
何故くら寿司に行ったかというと
なんといつも予約がいっぱいで入れなかったくら寿司関西万博店のメニュー
スペインのハモンセラーノ(生ハム)と
トルコのケバブが味わえることを知ったからで
いやいや、ベルギーレストランに並んでいる人を笑えませんがな(笑ってませんけど)
しっかり万博で踊っております。
人間はなんと愚かで愛おしいんでしょう。
和を以て貴しと為す
先日とあるイベント会場に向かうエレベータに乗った時のこと。
タイミングよく閉まる直前のエレベータに乗れたのですが
エレベータは満員。
エレベータ内はほぼ同世代の女性で
一人だけ20代位の女性がボタン近くにいて
6階のボタンを押したので
7階で降りる一番ドアに近い場所に立っている私は
「私は7階で降りるのでどうぞ」
と場所を変わろうとすると
ツーンとしたまま一言も発せず私が譲った場所に移動。
人間が出来ていない私。
思わず「感じ悪っ!」
と声に出して言ってしまいました。
丁度6階に着いてその若者が降りるタイミングで言ってしまい
聞こえてしまったかどうか微妙でしたが。
6階のドアが閉まった瞬間、どなたかが声をあげて笑われ。
それをきっかけに「ほんと、感じ悪かったわ!」
と口々に。
「乗った途端、開くボタンをひっきりなしに押してやな感じだったわよ!」
と。
たった数秒でエレベータ内に妙な連帯感が生まれ、
私の心は穏やかになっていったのでした。
でも視点を変えてその若者から見ると
おばちゃんの集団を嫌悪するような嫌な経験があり
毛嫌いしているおばちゃん達に囲まれ耐えらないような心理状態だったのかもしれません。
あるいは、とても急いでいて焦っているのに次々と人が乗り込んできて
苛々していたのかもしれません。
もしかすると私の言動は押しつけがましく感じたのかもしれません。
一方、私はというと気を利かせて「彼女のために」行ったことに対し
彼女からなんらかの感謝の気持ちを示す行為を当然のこととして
(ありがとうと言葉にできなくても、軽く頭を下げるとか)
意識はしていませんでしたが期待していたのでしょう。
ツーンと無視するような態度に私自身が見下されたような気持にもなり
思わず声がでてしまった、というところでしょうか。
今回、彼女のとった態度は私から見ると
「感じの悪い」ものでしたが、
私が取った行動も大人げなかったように思います。
でもその場にいた大半の人は彼女の行動を不快に思い、
私のとった行動に共感したわけで
今回のケースはちょっと意味合いは違いますが
ふと頭をよぎったのは今回のような連帯感と同調圧力の違いです。
私が通っていた高校は聖徳太子建立のお寺の学校法人で、
登校時には校門をくぐるとすぐ目に入る
「和を以て貴しと為す」という聖徳太子の17条憲法にある言葉を
眺めながら校舎に向かっていました。
この言葉をどう解釈するかですが、
「調和」や「協調」という言葉を思い浮かべませんか?
古くから日本では
個人よりも集団の調和を優先する。
意見の違いよりも空気を読む行動が評価されやすい。
対立を避ける穏やかさが美徳とされてきたのではと思います。
だからこそ、私が感じた「連帯感」は
個人が組織や集団の価値観や意見、行動様式に合わせるような心理的な圧力
「同調圧力」とかなり近い位置にいるんですよね。
紙一重とも言えます。
本来「連帯感」は共感や支え合いの感覚であり、強制ではなく内発的な「つながり」であるはずが
協調性を強要する心理的圧力になりかねない。
では組織においてはどうでしょうか?
連帯が強く同調圧力が緩やかな組織では
「多様な意見が共存する協働型」組織が育ち
同調圧力が強く連帯が弱いと「恐怖による秩序」が生まれ、
心理的安全性(異論を述べても罰せられない環境)が保てず、
離職やメンタルヘルスの不調へとつながることは
想像に難くありません。
最近は
テレワークや副業解禁で「組織内のつながり」が弱まりつつあり、
個人の価値観やワークライフバランスを重視し
心理的安全性や多様な人材を活かすダイバーシティ経営への意識が高まってきているので
「同調」よりも「尊重」
「和を乱さないこと」よりも「多様な意見を和として活かす」ことが
「和をもって貴しと成す」なのだという価値観にシフトしていくことが
これからの日本にとって重要なのだと思います。
享受する
日本初の女性総理大臣、誕生しましたね!
高市総理が放つ熱量に、私は大いに期待せずにいられません。
就任以来息つく暇もないほど多忙を極めていらっしゃるように見受けられる。
問題山積みの中の厳しい船出。
時間はいくらあっても足らない状況かと。
国の明日を担う総理とはくらべものになりませんが、
今年もあと2か月弱。
といいますか今月も残りわずか。
今月中にやらないといけないことが山積みの私、
今日もひいひい言うてます。
はぁ。。
日々時間がない!と齷齪し、気が付けばもうすぐ来年。
「そんな感じであっという間に一年が過ぎるので、
今年から年初めに今年中に挑戦することをいくつか決めるようにしたんです」
と知人。
その方は大阪マラソン参加完走を第一目標に
社内コンテストに参加することを第二の目標に掲げ全て達成したとのこと。
えらいっ!
ということで、
今更感満載ですが、私も少し考えてみました「これからの抱負」。
私がこれから成し遂げたいものってなんだろう?
と考えたときに誰からも何者からも束縛されず
制限されず脅かされず
自由に目標を持つことができることが
当たり前ではないことに気づきました。
私は今健康で恵まれているのだなとも思います。
だからこそ、今を享受しなければ。
「安心・安全な生活を享受するのは国民の権利」という言葉がありますが、
日本国憲法にはこの言葉に直接言及した条文はないものの
第13条(個人の尊重・幸福追求権)や第25条(生存権)などに基づく
基本的人権の一部として保障される権利とされています。
また第12条に自由・権利の保持の責任という条文があり、
「この憲法が国民に保証する自由及び権利は
国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」
とあります。
権利は「受け取るだけのもの」ではなく、自らも他者の権利や安全を尊重し、
守る責任があるということです。
享受する権利は守る責任、義務も伴うものだということを
今一度思い出す必要があるのかもしれません。
幸運の女神には前髪しかない
公明党が自民党との連立を離脱したのが10月10日。
吉村代表が譲れないとしていた「議員定数削減」を自民が応じる方向となり
自民党と日本維新の会が20日にも連立政権の合意書に署名する見通しとのことで
一時は危ぶまれた女性初の総理大臣誕生が急転直下、
現実味を帯びてきました。
(そして維新は大臣を送り込まず閣外協力を検討しているのだとか。賢い)
連立に向けての協議に関連する報道を見ていると
実際に起こっていることはわかりませんが
強い信念をもつ両党の代表が
維新の提起した政策を論じるにあたり
「これからの日本」をよくするために
真摯に向き合っていると私には見えて
今までにない景色をここ数日目の当たりにしていることに
驚いています。
「幸運の女神には前髪しかない」という諺をご存じでしょうか?
由来は古代ギリシャの詩人が時の神カイロスについて
「前髪があるが後ろ髪はない」と表現したことが始まりとされており
「好機は目の前に現れたときに掴むものであり、過ぎ去ってからは決して捕まえられない」
ことを示しています。
今回の高市総裁誕生から公明党連立離脱、その後の維新との連立合意の流れを見ていて
好機やチャンスは
掴める自分でいないと、つまり掴めるスキルがないと掴めないのだということを
まざまざと教えられたように思います。
誰にとっての好機でチャンスだったのか。
高市総裁にとってなのか。
自民党にとってなのか。
維新にとってなのか。
それはいずれ歴史が証明してくれるだろうけど
日本という国にとって大きな好機であったと
なってほしい。
切に願います。
