日記

2025-04-27 21:30:00

コーヒーの日々

なんともう黄金週間。

どうお過ごしですか?

私はルイボスティー、黒豆茶、トウモロコシ茶の日々です。

 

なんのこっちゃ。

 

自分で仕事量をコントロールできるようになり、

休もうと思えば思う存分休めるはずなのに

気がつけばいつも時間に追われて

今時の言葉でいうところの「タイパ」を常に考えている、

いや、支配されている日々を私、送っております。

  

そんな私の心強い友はコーヒーで

特に仕事中は1日の許容範囲と言われる3~5杯は飲みます。

 (なんでも成人の1日のカフェイン摂取推奨量は400mgでコーヒー1杯(150mlとすると)のカフェイン量は80mg程度だとか。

アメリカの食事ガイドラインには「1日3~5杯のコーヒー摂取と健康な成人の2型糖尿病および心血管疾患、肝臓がん、子宮内膜がんのリスク減少との関連を示すエビデンスがある」と記されているらしくむしろ体に良いと信じて)

 

最近のカフェイン過剰摂取問題が背景にあるのか

色々なノンカフェインの飲み物が増えていて

私も家にいるときは

好んでルイボスティーや黒豆茶、トウモロコシ茶をその時の気分で楽しんでいます。

 

 コーヒーを何杯も飲んで時間に追われながら効率的に生きようともがく私を

やめるつもりでいたはずが

そんな自分も結構好きで、そんな自分を手放せないんだなあと気づきました。

 

365日コーヒーを手放せなかった私が

ルイボスティーや黒豆茶を楽しめるようになり

洗濯物を干したベランダからぼーっと青空を眺める時間が

私にとって大切な時間になりました。

 

コーヒーの日々もルイボスティーの日々も

かけがえのない愛おしい日々なんだよなあ。

 

良かった。

そんなことを思えるようになった自分をちょっと認めてあげようと思います。

日々是好日。

2025-04-20 17:00:00

知らず知らずのうちに

先日同じマンションに住む小学校の教師をされていらっしゃった方と立ち話をしまして、

今から10年ほど前に母校の先生をされていたことがわかり

その時凄く「荒れていた」事を知り衝撃を受けました。

(今は退職されていて状況はよくわからないそうですが)

 

私が小学生だったのは遥か昔のことですが、

綿織物の盛んな町で、近所の家のほとんどが自宅の横に工場をもって

朝から晩まで「織物を織る機の音」が響いていました。

ちょっと山に入ると畑や田んぼが広がって

貧しいながらものどかな町で、

今思うと多少の貧富の差はありましたが、

同級生は同じような価値観の中で育っていたように思います。

だから「いじめはなかった」というとそうではなく

やんちゃな男の子達は「弱い者いじめ」をしていました。

1人ターゲットになっている男の子がいて

幼稚園が一緒で近所だったこともあり、

幼稚園の頃はその子のおうちに遊びによく遊びに行っていました。

 小学校に入り、

私はなんというか「勉強ができる優等生」になり

「一目置かれる」ことが「一番大切」なことだったので、

その子と「仲良し」だと思われることが怖く、

口も利かないし「いじめられている」事を知りながらも

見て見ぬふりをしていました。

その子はやがて所謂「知的障害特別支援学級」に入り、

私はほっとしたことを憶えています。

 

私最低でした。

最低でしたが、その頃はなんと言いますか

「自分の居場所を作ること」に必死で

「生きていくのに必死」だったように思います。

 

何故母校が荒れていたかというと、

どんどん開発が進み住宅やマンションが次々と建設され

新旧の住民が混在する形となったので

育った環境が大きく異なる色々な価値観を持つ児童が混在することになったことで

大きくは「地元民」と「新住民」の対立があったとのこと。

 

大人でも色々あるのに子供ともなると況やです。

 

今新しい環境に慣れずに、四苦八苦されていらっしゃる方も多いのではないかと思います。

私達は知らず知らずのうちに色々なもの、他人を自分の基準で比較してしまいます。

自分と他人との比較をまず無意識に行ない

自分が優位であると感じた時

人間関係の構築が出来ていない環境では特に

自分の居場所を確保したように思い、

承認欲求が満たされ

漠然とある不安から少し解放されて、安心して息をすることが出来る。

そして、知らず知らずのうちにまわりを

同僚や

家族や

友人や

上司や

組織そのものを過小評価し

優れている自分はジャッジしコントロールする資格があると思う。

 

そんな人、周りにいませんか?

いますよね。

実は私自身、そんな人でした。

「ああはなりたくないようなあ」と思いながら

知らず知らずのうちに

「ああはなりたくない人」になっていて

「周りに誰も居ない」ことに気づいたのが数年前です。

 

もし

「人には色々な考え方があり、価値観がある」こと。

そのことを理解し、受け入れることが出来ていれば

そして自分の価値観で

自分の稚拙な、勝手な基準で優劣をつけることが

どれだけ愚かな事なのかに早くから気づいていれば

私の生き方は大きく変わっていたのだと思います。

 

でも自分と違う価値観の人を受け入れる事は

特に大人になってからは

とても勇気がいることだし本当に難しい。

 

あの幼い日、仲良しだった男の子は

いじめられながらも決して私に助けを求めることはなかったし

話しかけもしなかった。

 まだ男の子のうちに遊びに行くほど仲が良かったころ、

その子には歳の離れたお姉さんがいて

 お昼にオムライスを作ってくれたことがありました。

 

そのオムライスにはチキンとグリンピースが入っていて

綺麗に整えられた卵の上にかかったケチャップが嬉しくて

色々なところでオムライスを食べてきたけれども

あの味を超える「美味しい!」と思えるオムライスにはまだ出会えていません。

 

あのオムライスを作ってくれたお姉さんの気持ちを

幼い私は知る由もなかったけれども

今なお、オムライスを食べる度に

後ろめたいような苦い感覚とともに思い出します。

 

今の若者は概ねジェンダーに対する偏見はなくなっているそうで

それは幼いころから偏見のない世界の中で生きてきたからだと思います。

「多様性の理解」という言葉はまだまだ紛争が絶えないこの世界では白々しく思うけれども

「みんな違ってみんないい」環境の中で育てば

いつの日か本当の意味でダイバーシティが体現され、

お互いに尊重し合える安心安全の場を気づくことが出来るはずです。

 

あの幼い日には戻れないけれども、懺悔をこめて

 「みんなと違っている」ことで悩んでいる人が笑顔になってくれるよう

「違っていい」ことを命ある限り伝えていきたいと思います。

 

だけどきっとオムライスを「美味しい!」と笑顔で頬張る日はこない。

それを認めることが私にはとても重要な事なんだと思います。

 

 

 

2025-04-13 14:15:00

2025年のこんにちは

1週間前の日曜の夜から栽培キットで椎茸の栽培を始めまして、

霧吹きで朝夕2回水を与えるだけでなんという事でしょう!

こんなに育ちました

きのこ2.jpg

通常価格の半額990円(税抜き)で通販で購入した栽培キット(おそらく売れ残りの最終価格。もりのしいたけ農園というところのものです)

 あと2回は収穫できるそうで、おばさん小躍りして喜んでおります。

 成長の過程がしっかりわかるので、お子さんの食育にもお薦めですよ!

 

万博開幕しました。

あれだけ批判されながら

蓋をあけてみれば

なんとワクワクする世界を

作り上げて下さったことか。

携わった皆様、

本当にありがとうございます。

開会式も素晴らしく何度涙したことか。

 

貴方は行かれますか?

私は可能な限り行こうと思っています。

 

まずは5月中旬の予約を既に入れていまして、

2か月前予約を済ませましたが

行きたいパピリオンがいっぱいあるので

悩ましい!

 

思い起こせば今から55年前の大阪万博

かなり小さなころでしたが

動く歩道に感動したり

天井一杯広がる蒸気機関車(確かみどり館だったような)に圧倒されていたことを

いまだにしっかり覚えています。

何より外国からの人がいっぱいいて、

レストランで隣に座った金髪で青い目の美しい男性が

バニラアイスのお皿を手前に引き寄せて

「これで食べるんだよ」と言うように

にっこり笑って私にアイスクリーム用のスプーンを渡して下さり、

私、舞い上がる舞い上がる!

でも恥ずかしくて

御礼言えなかった事をしっかり覚えています。

美味しかったなぁ、あのアイスクリーム..(遠い目)

田舎に住んでいた私は

お皿に盛られたバニラアイスなんぞ

見たこともなく、生まれて初めてがてんこ盛りの1日でした。

 

「こんにちはぁ~こんにちはぁ~西のぉ~国からぁ~」

と歌う三波春夫大先生のお姿とともに、

1970年の万博は「未来」という言葉も充分に理解していない子供にとっても、

夢がいっぱい詰まったワクワクする空間で、

今の私にとってもとても愛おしい記憶です。

 

だからまだ頭と足腰がしっかりしているうちに

このまたとない機会を充分に楽しもうと思っています。

 

どこにいても、どんな人にも

チャンスは巡ってくるのに

そのチャンスに気付かないと

そして掴める自分でいないとチャンスは逃げる。

 

 

長い年月の中で、私が身に沁みて悟った教訓の1つです。

 

さぁて!

楽しむぞ!

 

 

 

 

2025-04-06 20:40:00

リスタート

なんともう4月(このフレーズ毎月言っているような..)

なんともう年の4分の1は過ぎてしまいました..。

 

この週末ちょっとだけ大阪城公園の桜を観てきました。

トップページ1枚目はその時撮った写真です。

大阪城公園まで来ると、西の丸庭園まで行って桜の中の天守閣を撮るのが常だったのですが、

今年はあまりにも人が多く諦めました。

 

写真では人少なそうに見えますが、

顔が分かる人達はAIで削除しているのでございます。

消したところはそれらしい画像に自動修復してくれるのでAIほんま恐ろしく便利...。

 

ざっと見渡したところ、8割はインバウンドの方々ではなかったかと思われ、

人種も多種多様で、まさに「人種のるつぼ」化していた大阪城公園。

 

歩きながら「さくらぁさくらぁ」と歌いだす人もいて

 

皆さん楽しそうで何よりでした。

 

大阪城さくら.jpg

 

屋台を写真に撮っている人多かったのですが、

確かに色とりどりの看板の平仮名や漢字の混じったPOPは

「日本」らしいのかも。

 

4月は年度替わりで、

ピカピカの一年生になった人も多く

3月から4月にかけては

別れと出会いに季節でもあり、

気持ちが追いつかない人もいらっしゃるのではないかと思います。

新しい環境に慣れるまでは毎日がほんと大変。

「最初が肝心」と肩に力入りますしね、

 

でも張りつめすぎると、

空気がパンパンに入ったボールのように

押されたらすぐ跳ね返してしまうし、

跳ね返すのに疲れてしまうと

空気が抜けて跳ね返す力もなくなってしまい、

押されっぱなしになってしまいます。

 

もし空気が抜けそうになったら、

「助けて!」と声を出せる人になってほしいし

声が出せる環境であってほしい。

(それは仕事の場でも。学校でも。家庭でも)

 

そのお手伝いをすることが私の仕事です。

 

4月はリスタートできるチャンスの月でもあります。

 

「キャリア」とは仕事だけのことを言うのではなく

もともとは「轍」を意味するラテン語「carraria」から端を発した言葉で、

人が辿る経路や足跡を意味するところから、

人生の中の様々な役割(学生、仕事人、親、子供等々)を含めたもの

仕事を含めた人生全般と捉えることができます。

 

折角なので

貴方らしい轍を

是非作っていってください。

 

そのための応援が必要なら

馳せ参じますで!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025-03-30 17:00:00

正常と異常の境目

ミャンマーの地震で今現在の死者数は1000名を遥かに超えて、

大惨事となっていますね。

 

最近神戸の老舗の洋食屋さんとお寿司屋さんでごはんを食べたのですが、

2店ともミャンマー出身の若い女性がスタッフとして働いておられ、

老舗の洋食屋さんでは

インド系の華奢な女性が丁寧な日本語で一生懸命給仕してくれて、

会計の時にお店の人に「日本語が上手いあの方はインドの方?」と伺うと、

「もともとはインドらしいのですが、

ミャンマーからだそうです。」

とのこと。

たまたまかも知れませんが、

多くのミャンマー難民が祖国を離れ、

日本が今「第三国定住ミャンマー難民支援」として受け入れている人たちなのかも知れない

とふと思ったりしていました。

 

その矢先だったので、地震のニュースを目にしたとき

一生懸命な彼女たちの顔が浮かびました。

 

彼女たちのご家族や友人、そして家は大丈夫だったのだろうか?

難民として避難してきているのだったら大丈夫なのか。

それがそもそも残酷なことじゃないか。

などとやるせない気持ちで色々思いを巡らせてしまいます。

 

今ミャンマーは国軍と民主派勢力、そして少数民族との間で戦闘が続いており、

地震後も国軍は空爆を続けているとか。

軍によるクーデター後の死者は6000人以上に上るという報道もあり、

今回の地震により本当に支援が必要な人に内外からの支援物資が届かない可能性は充分想定できます。

「人道支援」という言葉が虚しく思える現状です。

 

ヒトラーは晩年、コカイン中毒だったことをご存知でしょうか。

(私はつい最近知りました)

ホルモン剤から始まり鎮痛剤から覚せい剤、

そして第2次世界大戦勃発後1944年のヒトラー暗殺未遂事件で

ヒトラーは耳を負傷し、その痛み止めのために

コカインを常用していたとか。

そのせいなのかどうなのか。

誇大妄想にとりつかれ、現実逃避が目につくようになっていったとか。

 

ヒトラーが薬物中毒でなければこの世界は変わっていたのか。

 

正常と異常の境目は何処にあるのかと考えます。

「正常な世界」と「異常な世界」

「正常な権力者」と「異常な権力者」

「正常な心」と「異常な心」

誰にとって正常で、誰にとって異常なのか。

 

「異常な世界」の真ん中にいても

気づかず生涯を終えてしまう人もいて

気づいても「異常な世界だ」と声をあげる手段を知らず

朽ちていく人もいて

声をあげてもかき消されてしまい、

やがて諦める人もいる。

そもそも

私自身は正常なのだろうか。異常なのだろうか。

 

 

ここまで考えふと彼女たちに思いを馳せた時

現状が異常であっても正常であっても

関係なく

彼女たちの未来は祖国の希望になるのだということに

気づきました。

 

この世界の片隅で

祖国を離れ、遠い異国の地で、一生懸命言葉を覚え懸命に働く彼女たちは

生きることに必死な彼女たちは

確実に生き抜くための力をつけていっているし、

今の経験はこれから生きていく上での肥やしになるのは間違いありません。

 

彼女たちが明日のアウンサンスー・チーになるかもしれません。

 

そしてそんな彼女たちに

祖国が今正常か異常かなんて聴くことがどんなに愚かなことなのかと

同じ場所に居ながら全く違う世界に居ることに

愕然とします。

 

 

 

 

 

 

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