日記
アサーションその2
自分の気持ちや考えを表現しなかったり(できなかったり)、
あいまいな言い方になったり、言い訳がましくなったり、消極的な態度をとったり。
特に上司や自分より社会的地位の高い人に対してはノンアサーティブになりがちではないでしょうか?
これらは、一見、相手に配慮しているように見えるかもしれません。
しかし実際には、自分を大切にしていないし、
自分の気持ちには不正直になっているので、ノンアサーティブに人と接したときは
なんだか卑屈な気持ちになったりもやっとしませんか?
だからこそ、その結果、自分の中に劣等感や諦めの気持ち、相手に対する恨みがましい気持ちやわかってもらえなかったといった、傷ついた感情も残ります。
では相手はどうでしょう?
貴方がノンアサーティブな対応をされた場合、どういう気持ちになりますか?
なんだかへんな優越感がわきませんか?
あるいはもしかすると、憐みや罪悪感や、「なんでそんな風に卑屈に接するの?自分が嫌にならない?」と苛立ちすら感じるかもしれません。
両者にとってあまり後味の良いものではないですよね。
では「攻撃的(アグレッシブ)」な対応をしてしまう場合はどうでしょう?
ノンアサーティブとは逆に、後輩や部下、自分より立場の弱い人、それこそノンアサーティブな人に対しつい高圧的になってしまっていませんか?
アグレッシブな対応をするとしっかり自己主張できる反面、
相手の言い分や気持ちを無視・軽視して、大声で相手を責めたり怒鳴ったりするだけではなく、自分勝手な行動をたり、不当に非難や侮辱をしたり。
結果的に相手の気持ちを害したり、相手を不当に見下したり支配したりすることにもつながります。
ハラスメントの臭いがぷんぷんしますね。
ただ、こうした言動は、実際には空威張りや防衛的であることが多く、後になって行った本人も後悔をすることがあります。
攻撃的な対応をされた相手は傷つき、恐れや怒りといった感情が残ります。
どうして私達は状況や相手によって攻撃的になったり、非主張的になったりするのでしょうか?
全ての人が相互尊重や対等な関係性(アサーティブ)の中で生きていけたら、争うこともなく、いじめの問題もおこらず生きやすくなるのに!と思いませんか?。
でもね、これ、本当に難しい。
「だってさあ。私一人がアサーティブに接しようと頑張っても、周りの人がそうじゃなければだめじゃん!」
と思われた方。
そう思いますよね?
でもね、職場や家庭、自分の置かれている環境の中で 貴方1人が根気よくアサーティブに接することを続けていると、
まわりはどんどん変わっていきます。
これ、間違いなく本当です。
1人の力がダイナミックに組織を生返らせることは色々なシーンで見て来ました。
例えば新入社員や配置異動で新しい人が入ってくると少し組織に変化が生まれませんか?
私達はお互いの影響をしっかり受けています。
貴方が部下や後輩をもつ立場にある人なら効果は覿面です。
是非、貴方から始めてみてください。
次回はアサーティブな接し方を掘り下げていきます。
また是非お付き合いください。
アサーションその1
前々回、ちらっと書きましたアサーション。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、
アサーションとは「相手の立場や権利を侵すことなく、自分の意見、感情、権利を抑圧せずに適切に表現する行動」
であり、自己と他者を公平に尊重することが前途となるものなので
「角が立たないように自分の意見を伝えたいけれどもどう言えばいいの?」
「部下に注意したいけれど、どう言えばいいだろう」
等々、対人関係に悩んでいる方、ぜひ一読ください。
Assertionを直訳すると「主張」「断言」を意味する名詞で、
「アサーション権」なるものがしっかり定義されています。
「アサーション権」は誰しもが持っている権利です。
多岐にわたるのでいくつか抜粋します。
•「アサーション権」抜粋
うん?「責任を持つ権利」?
そうです。アサーションは責任を持つ権利を伴うのです。
紫陽花
凄い雨でしたね。
被害にあいませんでしたか?
私の住んでいる地域は避難勧告がでている世帯もあり、
何度もスマホからアラームがでて、どきどきしながら過ごしていました。
(なんとか無事でおります)
被害にあわれた方、謹んでお見舞い申し上げます。
小さいころ、近所に住む従兄妹の家が川の水位より低い場所にあって、
大雨になり川が氾濫すると、
青年団の方々や村の有志の方々が駆けつけてくれて皆で従兄妹の家を守ってくれて、
母をはじめ親戚のおばちゃん達はうちの台所で大きな丸いおにぎりを一生懸命握って
いりごまをふって餅箱いっぱいにしていたことを覚えています。
普段は結構仲の悪い(え?)人達も、こういう時は必死に助けあっていて、
今思えば、わからないながらもこういう姿を折に触れ見てきたから
「生きる力」を無くすことなく今までやってこれたのかもと思います。
数年前他界した母は紫陽花が好きで、時折投稿していた短歌の雅号は紫陽花でした。
「母は紫陽花が好きだった」という話をご近所にお住いの人生の先輩Tさん(男性)にふと話したことがあり。
それ以来、Tさんはご自宅で育てている紫陽花が咲くと「お母さんに」と
ペットボトルを半分にきって花瓶にしてくれて持ってきてくださるのです。
若いときはわかったつもりになっていたことが、歳を重ねると何もわかっていなかったことに気づき、
老いてはいきますが、本当に、歳をとらないとわからないことが沢山あって。
見える景色もいっぱいあって。
だからね、どんな事があっても、ぎりぎりまで踏ん張って生きていこうと思います。
恥しかった出来事
先日閉店間際のスーパーに行ったら、
坂本龍一さんが作曲された「ラストエンペラー」のテーマ曲が流れてきて、1日の疲れが吹っ飛ぶような有難い気持ちになったのですが、そんな中半額シールが貼られるや否や惣菜コーナーに群がる人達(私も含む)
そして、あっという間に空に近くなった惣菜コーナーでぽつんと残るかつおの唐揚げ。
バックグランドミュージックは「ラストエンペラー」
なんともシュールな。
先日近所の公園を通りかかった時、小学生が6~7人集まってなにやらごちゃごちゃ話していて。
しばらく歩くと知り合いの女性Aさん(私より10歳ほど先輩)がずっとその小学生を見ていらっしゃいました。
「何事ですか?!」と私。
「この公園、ボール遊びしたら駄目なのに毎日のようにサッカーしているから注意したんよっ」
「ボールで公園の中の木や花にばんばん当てるから、どんどん植物が駄目になってるのよ!
ここまで育てるの大変やのにっ!一度駄目になったらどうしようもないのよっ」
(この方は自宅でいっぱい植物を育てていらっしゃるのです。)
「注意しても「こんなおばあちゃんが何言うてんねん」って感じで馬鹿にして聞かないのよっ!」
とかなりの御立腹。
「それは腹立ちますね、ほんまにっ」
「あの子たちはわからんのやと思いますよ、自分達がどれほど草木を傷つけているのか..。」
「きっと○○小学校の子達ですよね、小学校に言いましょうかっ」
と怒りが込み上げてきた私。
するとAさん、「そんなことせんでええよ。」と言いながらうーんと考え
「もう一回言ってくる!」と小学生の中に入っていかれました。
(私は用事があったのでその場を立ち去りました)
しばらくして「赤たまねぎ要らない?」と袋一杯に自家農園をされているご主人が収穫された赤玉ねぎを自宅に持ってきてくださり。
「どうでした?」とお聞きしたところ、
「みんな上手すぎてボールがよく飛ぶから公園の人が一生懸命育てている木とか花に当たるねんよ。
そうしたら、その植物は駄目になってしまうから可哀そうやろって話したらわかってくれたわ。」
とのこと。
おお。。
「怒るだけやったらあかんね」と。
うん??
どうも私の怒っている姿を見て冷静さを取り戻しどうすればあの子たちに響くか考えたとのことで。
Aさん、グッジョブ!
そして私、冷静になってみると、
「小学校に言いつけてやる」という解決方法、
小さい頃いじめっ子に言い放っていた
「先生に言うたる」とどう違うねん。。
アサーション(相手を尊重しつつ自分の意見を伝えるコミュニケーション方法)や色々なコミュニケーション技法を習ってきているのに。。
本当に恥ずかしいことでございます。。
出直してきます..。
桜花爛漫月朧
4月になりました。
進学したり進級したり、そして入社したりと、新しい時の始まりです。
この始まりの時に咲く桜を日本人はとても愛しますね。
先日大阪城公園に朝お花見にいきましたが、
見事な桜の下、海外からの観光客も多く朝から賑わっていました。
白無垢の花嫁、羽織袴の花婿が写真撮影していたり、
桜の下で笑顔が溢れ、良い時間でした。
春になると、当たり前のように桜が咲き、当たり前のようにお花見をする。
と思っていましたが、
綺麗に桜の花を咲かせるために精魂込めて手入れをされている人がいらっしゃって
健康でいるからこそ桜の下に歩いていけるのだということを
思うようになったのはいつからだったのか。
儚いからこそ愛おしいということを身に染みて思うようになったのはいつからだったのか。
京都の保津川下りで痛ましい事故がありましたね。
幼いころ体験しましたが、
急流でも上手く乗り切るプロフェッショナルな船頭さんに乗船していた誰しもが全幅の信頼を寄せていたように思います。
報道によるとライフジャケットの装着の仕方の説明もなく、
前につけていたり、後ろにつけていたりと各々が好きに着けていたと。
死亡した船頭さんのライフジャケットも膨らんでおらず用を成さず
また、電波環境の悪い中無線機の携帯もなかったとのこと。
なんでしょうか、このリスク管理は。
「当たり前のように安全」だと思っていることは
「当たり前のように安全でいられるよう日々努力する人が居るからこそ成り立っている」事を常に思い、まず疑うことから始める必要があるのかもしれません。
「当たり前」はないのではないかと。
そして、いつどんな災難が降りかかるかわからないので、いつ死んでもいいように、行きたいところに行き、逢いたい人に会い、と毎日を悔いなく過ごさなきゃね。
日日是好日。
無の境地に達すれば、どんなにいいことがあった日でも、どんなに災難に見舞われた日でも、どんなに悲惨なことがあった日でも違いはないだろうという禅僧の言葉が由来のようです。
であれば、来る日も来る日もよい日が続くのです。
「毎日を大切に、ありがたく生きていく」心構えを説いているのだとか。
そのように生きていければ良いのだけれども、
なかなか難しいものです。
今回のタイトル「桜花爛漫月朧」は、桜を見る度思い出す言葉です。
母校の応援団が歌う逍遥歌を遠い昔一度聞いたことがあるのですが、この一節が妙に心に残っていて、
ネットで検索すると歌を聴くことが出来、
熱いものが込み上げてきて、泣けました。
歳をとるということはこういうことなのかと思います。
写真では実際の半分くらいしか伝わらないなあ。