日記

2023-04-16 19:00:00

人間万事塞翁が馬

今日、たまたま堺市立総合医療センターの前を通ったら法被姿の若者がうろうろしていて、

「今日だんじり祭りなのっ???春にっ???」と頭の中が?でいっぱいになっていたのですが、

補修後のお披露目で今日引き回しがあり、

横倒しになる事故があったのですね。

11人負傷で3人が重傷だとか。

例年30~50人程度で引くところ、今回はお披露目ということもあり他からの応援もあり100名程度で引いてたとかで、

交差点で曲がり切らずバランスを崩して倒れたの事でした。

こんな時、「いつもより倍以上の人数で引くって、最初から無理やと思ってたんや!」と後だしジャンケンのようにおっしゃる方がでてくることが多いのですが(今回はいらっしゃらないかもです、あくまでも一般論として)

無理やと思った時点できちんと意見しなはれー!!!

はあはあ。。失礼しました。(私、あとだしジャンケンがほんま嫌いなんです。すみません)

 

岸田首相の演説先での事件があり、黙秘している犯人は24歳の若者なのですね。

どんなことが語られるのかこれから明らかになっていくでしょうが、

安倍元首相を銃撃した山上被告に対する減刑署名は1万3千を超えているらしく、英雄視している人やファンレターを書く人もいるのだとか。 

 色々な思いが交錯し、やるせない思いです。

 

安倍さんもまさか自分の命が絶たれることになるとは数時間前まで夢にも思わなかったでしょうし、

本当にいつなにが起こるかわからないですね。。

 

このタイミングで私の話をするのは甚だ僭越ではございますが、

昨年7月のある朝、海鮮粥を呑気に食べていた私は、その数分後に痛みにのた打ち回り、数時間後には救急車で運ばれ腸閉塞の緊急手術をすることになるなんて、夢にも思いませんでしたもの。。

ほんまに人間、塞翁が馬。

幸不幸は予測がつきません。

 

手術後麻酔から覚めてベッドから天井を見ながらはたと気づきました。

「たまたま今回は運よく助かったけれども、もしあの時救急車を呼ばなかったら意識を失って腹膜炎になってそのまま死んでいたかも。。」

「自分でコントロールできるうちはいいけれども、認知症になったらどうするの?」

「動けなくなったらどうするの?」

いざという時の準備が何もできていないわ、私!

ということで、退院後「終活」について真剣に考え、勉強するようになったわけです。

 いざというときにどこに連絡すればいいの?

誰も居ないところで意識がなくなった場合、どうやったら発見してもらえるかな?

終末医療はどうするの?相続は?死後整理は?お葬式やお墓は?

自分の意識がしっかりしているうちに、

リビングウィル(人生の最終段階における事前書)や死生観をきちんと伝えるためのエンディングノートを作っておかなければっ!

等々。知れば知る程、今から準備しておくべきことがでてきてそわそわします。

 

貴方はいかがですか?

「色々不安はあるけれども、何を準備したらよいのかわからないっ」

ということはありませんか?

 

そんな貴方のために安心できるネットワーク作りをしようと今色々準備しております。

またご案内しますので、

宜しくお願いいたします。

 

2023-04-07 12:00:00

美しい雨

今日は雨。

 

20世紀を代表する指揮者の一人、フルトヴェングラーをご存知でしょうか?

ナチス政権下のドイツでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を長く務めてきた方です。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にはユダヤ人が数名いて、コンサートマスターもユダヤ人であったため、本来ならナチスの迫害対象でしたが、ヒトラーが彼の才能を高く評価していたため免れていました。

当初はナチスを批判し続けていましたが、締めつけがどんどん厳しくなり、ナチス主催の公式な場での演奏を拒み続けていた彼もついにはゲッペルズ主催のヒトラーの生誕前夜祭でベートーベン第九を指揮します。

その時の演奏は歴史に残る名演で「ヒトラーの第九」と呼ばれており、ネット検索すると演奏が聴けます(凄い時代になったものです)。

 演奏の後、ゲッペルズが握手を求め応じた写真が全世界に広まり彼は親ナチスと印象づけられ、批判を浴び続けます。

その間海外の友人から何度も亡命を勧められるもドイツに留まり続けました。

彼が公職に留まる限りベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーは徴兵されない、聖域だったのです。

 

当時を振り返り語った彼の言葉です。

「亡命しようと思えばできただろう。そうすれば国外からナチスを批判することもできただろう。しかし、私の使命はドイツ音楽を生き延びさせることだと考えた。ドイツの演奏家達とドイツ人のためにドイツ音楽を演奏し続ける事。これを前にしては、演奏がナチスの宣伝に使われるという懸念は後退していった」

「あのような時期に立ち去ることは恥知らずな逃亡でした。所詮私はドイツ人なのです。およそ、ナチスのテロのもとで生きていかなければならなかったドイツ人ほどベートーヴェンによる自由と人間愛の福音を必要とし、待ち焦がれた人々はいなかったでしょう。

外国でどう考えられようと、私は自分がドイツ国民のためにした事を悔やんではいません。」

(NHK「映像の世紀」からお借りしました)

 敗戦後「親ナチス」として裁判を受けています(無罪になりました)

 

坂本龍一。

憧れの人でした。

YMOを知った時の衝撃は忘れられません。

かっこいいなあ。日本にこんな人がいたんだ。

彼はあれほどの才能の持ち主でありながら、

日本在住当時様々なメディアで接している限り、変な驕りや衒いもない

純粋に音楽や文学、そして人をとても愛している人という印象でした。

だからこそ、晩年癌に苦しみながらも、脱原発や被災地支援など、様々な活動を続けてきたし、

断固して貫いている信念があったのだと思うのです。

 

著名な音楽家や小説家、芸術家は時として時代に利用され、翻弄されます。

彼の訃報を伝えるニュースがあふれる中、偶然観たテレビ番組でフルトヴェングラーが取り上げられていて、なんとも感慨深く思いました。

坂本龍一は多くの音楽を生み出しましたが、

映画「ラストエンペラー」の中の音楽は、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀の生涯とその時代を映し出す中で当時の私の心を大きく揺さぶるものでした。

「ラストエンペラー」とフルトヴェングラーと坂本龍一。

私の中では妙にシンクロナイズされているのです。(坂本龍一は時代に翻弄された訳では無いのですが)

 

なぜ私達はこれほど芸術を必要とするのか。

音楽を聴いて、本を読んで、どうしてこれほど魂が揺さぶられ、感動するのか。

「芸術」と呼ばれる人が創り出すものに接することで、私は人として辛うじて生きていられるような気がするのです。

それが、今の私なりの答えとして漠然と思っています。

 

 坂本龍一は絶対音感の持ち主で、世の中の騒音や雑音、多すぎる音に悩まされていたと聞いたことがあります。

その中で、彼はご自分の娘さんに「美雨」という名前をつけ、「Rain」という曲も作っています。

雨音は彼にとっては心地よい音だったのかも知れません。

 

静寂の中唯一の音、「雨の音」を聴きながら、大好きな本を読んでいる。

そんな彼が思い浮かびます。

 

美しい人でした。

 

 

 

 

 

 

 

2023-04-01 00:00:00

桜花爛漫月朧

4月になりました。

進学したり進級したり、そして入社したりと、新しい時の始まりです。

 

この始まりの時に咲く桜を日本人はとても愛しますね。

先日大阪城公園に朝お花見にいきましたが、

見事な桜の下、海外からの観光客も多く朝から賑わっていました。

白無垢の花嫁、羽織袴の花婿が写真撮影していたり、

桜の下で笑顔が溢れ、良い時間でした。

春になると、当たり前のように桜が咲き、当たり前のようにお花見をする。

と思っていましたが、

綺麗に桜の花を咲かせるために精魂込めて手入れをされている人がいらっしゃって

健康でいるからこそ桜の下に歩いていけるのだということを

思うようになったのはいつからだったのか。

 

儚いからこそ愛おしいということを身に染みて思うようになったのはいつからだったのか。

 

  

京都の保津川下りで痛ましい事故がありましたね。

幼いころ体験しましたが、

急流でも上手く乗り切るプロフェッショナルな船頭さんに乗船していた誰しもが全幅の信頼を寄せていたように思います。

報道によるとライフジャケットの装着の仕方の説明もなく、

前につけていたり、後ろにつけていたりと各々が好きに着けていたと。

死亡した船頭さんのライフジャケットも膨らんでおらず用を成さず

また、電波環境の悪い中無線機の携帯もなかったとのこと。

なんでしょうか、このリスク管理は。

「当たり前のように安全」だと思っていることは

「当たり前のように安全でいられるよう日々努力する人が居るからこそ成り立っている」事を常に思い、まず疑うことから始める必要があるのかもしれません。

「当たり前」はないのではないかと。

 

そして、いつどんな災難が降りかかるかわからないので、いつ死んでもいいように、行きたいところに行き、逢いたい人に会い、と毎日を悔いなく過ごさなきゃね。 

 

日日是好日。

 

無の境地に達すれば、どんなにいいことがあった日でも、どんなに災難に見舞われた日でも、どんなに悲惨なことがあった日でも違いはないだろうという禅僧の言葉が由来のようです。

であれば、来る日も来る日もよい日が続くのです。

「毎日を大切に、ありがたく生きていく」心構えを説いているのだとか。

 そのように生きていければ良いのだけれども、

なかなか難しいものです。

 

今回のタイトル「桜花爛漫月朧」は、桜を見る度思い出す言葉です。

母校の応援団が歌う逍遥歌を遠い昔一度聞いたことがあるのですが、この一節が妙に心に残っていて、

ネットで検索すると歌を聴くことが出来、

熱いものが込み上げてきて、泣けました。

 

歳をとるということはこういうことなのかと思います。

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 写真では実際の半分くらいしか伝わらないなあ。

 

 

 

2023-03-25 22:18:00

劣等感

いやあ、WBC!

感動をありがとう!!

映画のようでしたね。

でも映画にしたら出来すぎていて、逆に現実味がないのかも。

侍ジャパンのマインド、ほんともう!なんてすごいんだ!

どれだけの人を勇気づけたことかっ!

 

アメリカ戦の前の大谷選手の言葉

「憧れてしまったら超えられないんで。僕らは今日、超えるためにトップになるために来たんで。。」 

この言葉を聞いた少年野球選手が

「僕は憧れるのはただなので、いっぱい憧れて頑張ってきたけど、憧れたらその人を超えられないんだなって気づきました。」

とテレビ番組で言っていて、とても感動しました。

  

大谷選手のプレーを真近でみた山川選手が「マジで野球辞めたいっす」と言っていましたが

生きていく中で色々な人と出会い、勉強や仕事やスポーツや容姿や。。

色々な局面で「どうころんでもこの人には叶わないなあ」と思ったり

「私ってなんて劣っているのだろう」と劣等感に打ちひしがれること。

ありますよね。。

それこそその人に素直に憧れ、その人をロールモデルにして頑張ればよいのですが

嫉妬して僻んだり、自分のそんな醜い感情に自己嫌悪に陥ったり。

前回お話したアドラーは

「人間であるということは劣等感を持っているということである」と言っています。

完璧な人間などこの世にはいないし、「劣等感」は主観的なもので、

どんなに優秀に見える人でも劣等感はある。

例えば「勉強ができない」とか「鼻が丸い」(私?)とか「家が貧乏」とかいう事実があったとしても、

それを劣っていると思えば「劣等感」になるし、思わなければ「劣等感」にならないわけです。

 でも「劣等感」を抱くからこそ、人は成長できるのかもしれません。

「劣等感」を言い訳にして逃げなければ、諦めなければ、

「劣等感」をバネに想像以上の実力を発揮できて、

子供のころに抱いていた夢を叶えることができたり

「目標」を達成できるかも知れません。

間違いなく言えるのは

「どうせ私なんかが頑張っても無理」(劣等コンプレックス)と

「劣等感」を言い訳に諦めてしまうと夢は叶わないということです。

 

劣等コンプレックスの強い人は「自分はむしろ人より優れている」と俗にいう「マウントを取る」態度にでる人がいますが、これを「優越コンプレックス」とアドラーは定義しています。優越コンプレックスを持つ人は「自分が強く見えるような努力」をします。

 

思い当たる人いますか?

かつて私もそうだったような気がします。いや、そうだった。

 

まずは自分の持っている「劣等感」を認めて、それをバネに「強く見える」努力ではなく「夢を叶える」努力を始めなきゃ。

 

今更遅いよ!

と思われるでしょうか?

でも人生は一度きり。悔いのない人生を送りたいのです。

 

 

2023-03-19 16:40:00

自分の意思で選択する

気が付いたら3月も半ばを過ぎ、もう下旬に突入しますで!

びっくりです!

 

イトーヨーカドーで礼服20%OFFになっていたので

最近体型が益々成長期にある私、いざという時にもしやえらいことになるのでは?

と思い覗いてきました。

色々試着したところ2サイズアップしていることがわかり

おばちゃん、ショーック!!!

スーパーの試着室は一瞬にして「現実」の厳しさを私に教えてくれました(T-T)

自分自身の本当の姿は自分だけではわからないもの。

1人で鏡を見るだけではなかなか気づかず、となりに誰かが居るとその人と比較したり、

服のサイズのような断固たる基準のあるものと比較することで自分を知ることが出来るのですね(←)。 

 

はるか昔大学の教養学部時代に心理学を履修したのですが、

教材は「フロイト精神分析物語」で、その頃心理学と言えばフロイト、もしくはユングの研究者が圧倒的に多かったと思います。

心理学に興味がない方でもフロイトやユングの名前はご存知だと思います。

が、最近本屋の心理学コーナーに行くとアドラーに関する著書が圧倒的に多く、

フロイトやユングに関する著書はなかなかお目にかからなくなりました。

 

まさにアドラー心理学は「現代の心理学」ですが、実際には彼はフロイトやユングと同じ時代に生きた人なのです。

 

そのことに驚愕します。

 

フロイトは「感情や行動は過去の原因から生み出される。」(原因論)と言っています。

これに対しアドラーは「感情や行動は目的を達成するために生み出される。(つまり、人は目的により行動を自分で決めている。)」(目的論)

と言っています。

 これだけの言葉でも目的論は

「未来の目的のために行動を自分を決めているのだから、自分の意思で自分を変えることが出来る。」

というポジティブな考え方であることがわかります。

「過去を変えることはできないじゃん。

でもね、自分の意思で目的は変えられるんだよ!未来は変えられるんだよ!

選びなおせばいいんだよ!」

 

なんと当たり前のことを言っているのでしょう。

 

でも、この当たり前のことがとても大切な事なのだと多くの人が気付いているからこそ、これほどアドラーが今愛されているのかも知れません。

 

彼は多くの言葉を残していますが、その一つをご紹介します。

 

健全な人は、相手を変えようとせず自分がかわる。

不健全な人は、相手を操作し、変えようとする。

(「アルフレッド・アドラー人生に革命が起きる100の言葉」(小倉広著)からお借りしました))

 

 これは対話型組織開発を学ぶ中で、私が影響を受けた言葉の1つです。

何か問題が発生した際、仕事でも家庭でも原因論的な考え方で行くと

「何が悪かったのか?」から「誰が悪かったのか?」に移行した結果、関係の質の悪化に繋がりがちです。

それより「今、自分にできること」を考え、問題の解決(目的)に労力を費やす方がはるかに生産的です。

例え明らかに誰かに非があったとしても、「今、自分にできること」を考える。

もし相手に気づいてほしいことがあれば、気づかない相手を責めるのではなく自分の伝え方を変える努力をする。

相手の悪口を言い、自分が被害者だと考え自分では行動を起こさない人と

もしかすると今は差を感じないかもしれませんが、

5年後、10年後、どちらが幸せな日々を送っているかは明らかだと思います。

(自らの人生を振り返りしみじみ実感します。あ、私は相手の悪口を言い、自らは行動を起こさなかった方です。)

 

原因論と目的論、どちらが良い悪いはありません。

各々特性があり、原因論は問題解決のための「分析」にとても適しているし、

目的論は「目標達成」のためにとても有効です。

 

「遺伝や育った環境は単なる材料でしかない。

その材料を使って住みにくい家を建てるか、住みやすい家を建てるかは、あなた自身が決めればいい」

(アルフレッド・アドラー)

 

あ、人に何かを伝えたいときにどうやって伝えたらいいの?

と悩まれている方、弊社コミュニケーションスキル向上セミナー「ラベリング」、お薦めです!

 

ところで私の現象「2サイズアップ」ですが、原因論でいくと、

「食べ過ぎ」「運動不足」だったから

「太った」

目的論で行くと

「太っても良いぜっ美味しいものを好きに食べて嫌いな運動するよりは、楽しく楽に生きる!」という目的があってそれに基づき行動してるから。。。

あ、なるほど。

これを「痩せて格好良くなりたい!メタボになって健康を害する前に何とかしたい!」という目的のために行動すれば良いのか!

 

わかっているのよ。