日記
心のバリアフリー
先週日曜、発達障害関連のセミナーを受けておりまして、
いくつかのケース検討がありました。
どの事例も「こんな人いるよなあ」というもので、
発達障害の特性は強弱はあるものの、
誰の中にもあるものだと思いました。
だからこそわかりづらいし、
もし自分が「障害がある」と診断されたとしたら、
認めたくないし、ましてや公表するとなると、かなり勇気がいるよなあ。
と思います。
障害に限らず、自分が「できないこと」を認めることはかなりしんどい。
例えば「聞いて理解する」ことが難しいAさんがいたとします。
職場でAさんの上司が口頭で仕事の指示をしたとします。
Aさんは仕事の内容について質問するでもなく
「わかりました!」と仕事にとりかかるものの
何をやればよいかわからないのか、考え込み仕事が進まない。
あるいは間違った内容の仕事を一生懸命する。
なんてことがあった場合、
貴方がAさんの上司だとしたらどう思いますか?
「仕事が出来ないやつ」とジャッジして、
「どうすればいいんだろう」と困ってしまいますか?
でもAさんは聞いて理解するのが苦手なだけで、
書いて指示すると理解できて、
理解するととてもよい仕事をする人かもしれません。
Aさんがもし「自分が聞いて理解する事」だけが苦手な学習障害があり、
そのことを認識していて
それを貴方に伝えることが出来、
「書いて指示してください」と言えていたとしたら
貴方は「書いて指示する」という所謂「合理的配慮」をすることができますよね。
その結果、Aさんは貴方の部署にとってなくてはならない人になるかもしれません。
そうするとAさんの障害は障害でなくなるわけで。
そのためにはAさんがきちんと自分のことを話せるような周りの環境であることが
重要なのだと思います。
難しいことです。「心のバリアフリー」って言うのは簡単だけど本当に難しい。
ですが、Aさんが居ることは、
Aさんの周りにいる人が成長できるチャンスであり、
真の意味で「多様性」を受け入れるきっかけになるかもしれません。
「多様性」という言葉が無くなることが真の「心のバリアフリー」なのかもしれませんね。
見なくてはならないもの
早いものでなんとゴールデンウィーク!!
如何お過ごしですか?
この円安の中、ハワイ行き飛行機搭乗者は過去最高だそうで。
多い人は10連休だそうで。
そしてわたくし。
ずっとぱっとしない天気が続く中、
毛布を仕舞うために
洗濯するチャンスを狙っていたわたくし。
今日やっっと毛布が干せてほんと、幸せ―っ!
ええんやええんや。
細いなことで幸せになる自分、我ながらかわいいやつ。
GWは溜まっている家事が片付いたら、
いつか読もうと溜めている本を読みながら家でまったり過ごす予定のわたくし。
ええんやええんや。
さて、先週お話した村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
読み終えました。
そして今更ながらこの本が世界的に大ベストセラーになっていたことを知った私。
(ほんとすみません..。)
内容や感想については色々な考察がでているので、
ちょっと齧っただけの私如きが何を語るかっ!
と思いますので、ここでは小説の中にでてきて、
文庫本の帯にもなっている
「自分が見たいものを見るのではなく、
見なくてはならないものを見るのよ」という言葉について、
少しお付き合いください。
先週も触れましたが、
同じ環境に居ても人は見たいものを見ます。
更に言うと、人は見たいものしか見ません。
そして、
自分を守るために無意識に、あるいは意識的に「見たくないものは見ない」です。
でも、見たくないものの中には、
「見なくてはならないもの」も混じっていることがあり。
この「見なくてはならないもの」を見るのはとても勇気のいることです。
だって、折角塞がっている瘡蓋をはがすようなことだから。
きっと、少しからず血が出ることを知っているから。
でも私達は知っていますよね。
何のためにわざわざ見たくないものを「見なくてはならない」のかというと、
それはもう、これからの自分のためであることを。
「ありたい自分」になるためには、見なければならない。
そして、きちんと向き合って対峙しないと前に進めないのだということを。
勿論、見なくても誰からも責められたりしません。
だって、「見なければならない」と決めているのは、
自分だけだから。
ですが、「見なければならない」ものを逃げずに見てきた人は本当に強いことを、
私達は知っていますよね。
だけど、「見なければならない」けれども「どうしても見られない」こともあり。
見ると自分が壊れそうで、怖くて見られないことがあることも、
私達は知っています。
人間だもの。
それでも「見なければいけない」と貴方の事を思って言ってくれている人がいたら、
そんな幸せな事はないのではないかと思います。
インポスター症候群
「インポスター症候群」をご存知ですか?
Impostor=詐欺師で、別名「詐欺師症候群」です。
インポスター症候群とは、自分の能力や実績を認められない状態を指します。
能力があることを示す外的な証拠があるにもかかわらず、
自分は詐欺師であり、成功に値しないという考えを持ち、
自分の成功は「単なる幸運やタイミングのせい」、
あるいは「実際より能力があると他人を信じ込ませ、周囲を欺いている」
という感覚に陥っていて、非常に自己肯定感が低い傾向があります。
(女性に多いとも言われています)
今回の水原容疑者の事件で、
私がまず頭に浮かんだのがこの「インポスター症候群」でした。
(彼がそうだというわけではありません。誤解なきよう)
学歴も詐称していたのだとか、
運転中の大麻所持で裁判沙汰になった過去があっただとか
色々出てきていますが、
大谷選手からの信頼が厚くなればなるほど
周囲の評価があがるほど、
怖くて怖くて仕方なかったのではないかと思います。
(本当に周囲を欺いていたわけですから、尚さらです)
だから、
今世間が下している彼への評価をみて
これから下される刑罰も含め、
「周囲を欺ていた自分に値する正当な評価」を得たと
どこかでほっとしているのではないかと思います。
(あくまでも私見です)
「インポスター症候群」でもなく
「ダニングクルーガー効果」(自分を過大評価する認知バイアス)の影響を受けず、
本来実力があり、また努力を惜しまなかったが故に「成功」していて
自分自身を過大評価、過小評価することなく
正当に評価できる人でも
「この成功がいつまでも続くはずがない」と
手に入れたものが多いほど、失うことの恐怖
高みに登れば登るほど、墜落する恐怖はつきまとうものだと
想像に難くありません。
人の心は厄介です。
あ、もし「インポスター症候群」だと思う人が周囲にいたら、
例えば失敗したら
過度な責任を感じないよう
「学びの機会」だと捉えられるような空気にしてあげてください。
もしあなた自身が「インポスター症候群」だと思うなら、
是非「失敗は学びの機会」と
捉え方を変えることからはじめてみてください。
その先の行動がかわりますで。
伝わるもの
母の命日には毎年高野山参りをしますので、今年も行って参りました。
トップページのスライドショー最初の数枚を高野山の写真にしました。
最初の2枚は奥の院、
次の2枚は霊宝館近辺の写真です。
紅葉が終わりかけでしたが、
冬の訪れを感じる高野山はとても空気が澄んでいて、とてもよい時期でした。
開業したときに「どんな屋号にしようか?」
考えた時にふと頭に浮かんだのが「I blong to me.」という言葉でした。
これは実はミュージカル「エリザベート」の中の1つの楽曲の題名です。
日本では和訳されて「私だけに」という題名がつき、英語圏では「I blong to me.」となります。
私がこの曲に出会ったのは同僚が貸してくれた宝塚歌劇雪組公演「エリザベート」のビデオで
今やミュージカル界の大スター花総まりさん扮するエリザベートが
ハプスブルク家に嫁ぎオーストリア王妃となり
今までのように自由に生きられなくなった事を身をもって知ったときに
この「私だけに」を歌い上げるのですが、
「たとえ王家に嫁いだ身でも
命だけは預けはしない
私が命委ねる それは 私だけに 私に」と歌い上げたときに
熱い感情がこみ上げてきて号泣してしまったのでした。
英語の歌詞ではこの部分は
I'm here when you need me.
I live and I die with you.
I'll share all your troubles.
I'll laugh and I'll cry with you.
You can blame me and bless me.
But you cannot possess me.
'Cause I belong to me.
To me.
あなたが必要とするとき、わたしはここにいましょう。
あなたと共に生き、そして死にましょう。
あなたが抱えている問題を分かちあいましょう。
あなたと共に笑い、そして泣きましょう。
わたしをとがめたっていい。あがめたっていい。
でもあなたは私を所有することはできない。
わたしはわたしのものだから。
わたしの。
となり、あとでこの歌詞を知りより深く私の心に沁みたのでした。
この雪組公演は世界のいたるところで上演されている「エリザベート」が
初めて日本のキャスト、演出で上演されたもので
初演に対するプレッシャーは相当のものだったようでしたが、
初演を観た友達の話によると
上演後あまりの感動で「拍手が鳴りやまなかった」そうで、
宝塚歌劇で何度も再演されているものの
未だに「初演は超えられない」と今では伝説になってしまいました。
それから何度となく宝塚大劇場に通い、
束の間現実の世界から離れ、美しい夢の世界へ誘っていただきました。
特に初舞台生のラインダンスは
親戚でも家族でもないのに泣けてくるのでした。
疲れた心と体に沁みるのです。
舞台を見終わった後、
「ああ、明日も頑張ろうっ!」と何度と思ったことか。
宝塚は荒んだ私の心を何度となく癒してくれました。
この感動的な舞台を見せるために
どれだけの練習を重ね、努力しているのかと思います。
最近の宝塚歌劇団の報道にふれる度、
胸が痛みます。
実際に劇団の中で何が起こっていたのか
無責任な想像で語ることはできません。
これから先は長らく組織の一員として働いていたものとして
今感じていることを書きます。
組織の一員として「世間」の期待を裏切らないよう「見せる」姿
「見せる」姿を保つために、「見せる」姿になるために
努力は必要だし、
乗り越えないと見えない世界もある。
ですが、その「見せないといけない姿」のために
「私が頑張るしかない」
「私が頑張らないとまわりに迷惑がかかる」
と無理を重ねてしまう
何もかも自分で引き受けてしまう社員に「甘え」
「好意の搾取」をしていることが
当たり前すぎて気づきもしない組織は
「事が起こらない」とどれだけ今の組織が危うい状況にあるのか気づかない。
「事が起こってしまった」時にはもう遅いのに。
呪文なのか
3連休ですが、大阪は雨。
金曜日にコロナワクチンを接種した私。今回は結構熱も出て倦怠感もあり土曜はほぼ1日臥せっておりました。
今日も少し怠くファイザー製のワクチンでしたが今までで一番副反応が強く出ているような。
先日「ミステリーと言う勿れ」という映画を観てきました。
私は原作本からのファンで、主人公久能整君が紡ぎだす言葉の数々に心が救われることもしばしばです。
今回も胸を打つ言葉の数々に溢れていました。
まだご覧になる方もいらっしゃると思うので内容については敢えて触れませんが、
この映画に限らず日々色々な事に接する中で最近強く思っていることがあります。
まだ固まっていない子供は、絶対的な力を持つ大人次第で簡単に傷つきます。
抱きしめてもらえず傷けることしかされてこなかった子供は
傷けることしか知らないから傷つけることでしか人とつながることが出来ない。
それが正しいと信じているので、自分が間違っているとも思わない。
あるいは、これではいけないと頭では分かっていても、自分ではどうしようもない。
傷つける事でしか自分を守る術を知らないのです。
もしまわりにまだ固まっていない子供が居たら
人は刺すものではなく抱きしめるものなんだよと
どうか、抱きしめてほしいと切に思います。
映画の中で少し引っかかったのが
「(家庭に入り子育てするのが)女の幸せ」を言い出したのは多分おじさんで
女の人から出た言葉じゃきっとない。女性をある型にはめるための呪文です」
というセリフがあり、「世の中に残っている言葉はおじさんが言った言葉がほとんどで
そこには趣味と都合が隠されている」
「自分の中から出た言葉を使ってください」と続きます。
私が小さなころは両親共働きで日中子供だけしない家は珍しい時代で、
「お母さんが家に居て子供の面倒を見る」のが当たり前の時代で
学校を卒業したら花嫁修業をする人は「家事手伝い」という肩書を持ち
「就職したとしても2,3年のうちにいい人を見つけて結婚すること」というのが
既定路線でした。
この路線から外れると
「みっともない」ことになり、
「早く嫁に行って幸せになってほしい」とやいやい言っていたのは
父親ではなくむしろ母親でした。
皆さんの御家庭ではどうでしたか?
勿論そういうふうに「良妻賢母」と言われることがそれこそ「女の幸せ」だと
小さいころから言い聞かされてきて(教育されてきて→洗脳されてきて)いたのでしょうが、
そしてその価値観はおじさんたちが作ってきたものなのかも知れないのですが
そのように言ってきた女性たちは
自身の経験から「自分の中から出た言葉」で語っていたのではないでしょうか?
ここにその時代の教育がもたらす価値観の怖さがあると思うのです。
どう思われますか?
機会があれば是非ご意見を聞かせてください。