日記
是非の基準その2
暑い!
お身体おかわりありませんか?
私はマイボトル片手に老体に鞭打ってなんとか動いております。
金曜日のシステム障害で全世界におけるマイクロソフトの依存度をあらためて認識されませんでしたか?
怖い出来事です。
今回の出来事が新たな脅威のトリガーにならない事を祈ります。
さて、前回、前々回とお話してきたことについて、貴方はどのように捉えられたでしょうか。
私と同じように捉えられたでしょうか?
それとも、私の捉え方を「危険」と思われたでしょうか?
あるいは「つまらない事に拘っていてしょうもない」と思われたかも知れません。
前回の就業時間中に喋り続ける人について、
貴方が事業主なら、上司なら、周りの同僚なら、先輩なら、後輩なら、
捉え方は違ってきて、また、その捉え方の違いから、起こす行動も違ってくるかと思います。
そして、その行動が果たして正解なのか。
数学のように絶対的な正解を出す事が出来たら、誰もが幸せになる正解が出せたら
どんなに過ごしやすい世の中かと思います。
私はAさんに直接私が困っている事を言わず、
その場から離れた訳ですが、
もし経営者だったら、
人手不足による倒産が増えている中、
人材確保が難しい状況下でAさんを処分するよりは、
Aさんのパフォーマンスをあげる方法を切実に模索するかもしれません。
Aさんの上司だったとしたら、
手に負えなくて「何処かに異動させたい」と考えるかも知れませんが、
実際に異動させようとしても
やはり人材確保が難しい昨今、どの部門も自部門の生産性を上げる事が必至の中、
Aさんの受け入れ先探しと欠員の補充がとても難しいのではと思います。
やはり、現状の中でどうにかしないといけません。
私のような同僚ではどうかというと、
Aさんとの関係が間違いなく悪くなることを恐れ、
直接意見することは避け、
で自分のストレス解消のために
Aさんが居ない時に同僚に愚痴ってしまうのではと思います。
...。
あかんですね。
私があかんかったところは、
自分が困っていることをAさんに話さなかったこと。
「貴方のおしゃべりで、私は仕事に集中できずとても困っている。
何故貴方は就業時間中におしゃべりをするの?」と。
そうすると、前回私が書いたように「だって楽しく仕事したいから」
と回答が返ってくるかもしれません。
でももしかすると「上司にも注意されるし、本当は静かに仕事をしたいのだけれども、止められないの」
と回答が返ってくるかも知れません。
「沈黙が怖い」のかもしれませんし、
もしかするとADHD(注意欠如、多動性障害)で誰かに何かを聞かれたことがきっかけで、
思考がどんどん移り変わり、思いつくことをそのまま話し続けてしまうのかも知れません。
あるいはASD(自閉症スペクトラム障害)で、
相手の気持ちや空気を読むことが苦手で、相手が望んでいないことに気づかず、
延々自分の興味のあることを話し続けてしまうのかも知れません。
本人も苦しんでいるのに、それを声にすることが出来ないのかもしれません。
もし声にしてくれたら、色々変わっていくのになあと
そうやって「自分が困っていることを声に出す」ことをしないと
何も変わらないよなあ
と今となっては思います。
ただ、話をする時、ついつい感情的に相手を非難しがちになりがちですが、非難するという事は自分は是で、相手は非であると思っているから。
どうして貴方はそういう行動をとるのか。
どうか正直な気持ちを話して下さい。
その一心でAさんの話を傾聴する姿勢でないと、決してAさんは心を開かず、決して良い方向に進まない事を忘れない事、とても大切です。
自分の価値観を頭ごなしに押し付けない事。
難しいですが、とても大切です。
話し合っても
「おしゃべりすると楽しく仕事ができるじゃない?何が悪いの?」
ということであって、
私がとても困っているということを伝えたうえでも
無駄話をし続けるなら
今の私ならその都度「集中できないから黙れ」ということを社会人らしい言葉に変換して伝え続けると思います。
それでも埒があかないなら
上司に相談する。
と思います。
私は医師ではないので、勝手に診断する事はもっともやってはいけない事ですが、業務に支障が出て困っている事例をもとに行動を起こさないと何も変わりません。
これが今の私の正解ですが、貴方はどうでしょうか。
「多様性の理解」
間違えないか私は日々試されているなあと思います。
是非の基準その1
3連休、いかがお過ごしですか?
私は勤め人を辞めてから、休日の概念が大きく変わり、
今日は朝早くから仕事をし始め先程終わりました。
わーいっ!のんびりするぞ!
ライフワークバランス、大切ですね。
(と気づいたのは勤め人を辞めてからですが..。)
開業するまでに、私は2回転職しています。
ですのでお世話になった企業は3社で、その中のある会社での話ですが、
同じ執務室内に就業時間中に仕事に直接関係のない雑談を延々する人が居ました。
(仮にAさんとします)
私は集中力がない方なので、周りに雑音があると仕事に集中できず、
パフォーマンスが極端に悪くなります。
いや、もうとてもストレスフルな日々でした。
「まわりがどれほど迷惑しているのか考えないのか?」と
好き勝手におしゃべりをするAさんは私から見ると「とても非常識な人」で、
「Aさんが居なくなったらどんなに良いだろう」と思っておりました。
上司が注意をしても、その時は大人しくなるものの、
しばらくするとやはりおしゃべりが止まりません。
「こんな人と同じ職場で働くために私は今まで頑張ってきたのじゃない」
と、当時の私は私自身が情けなくて、
このことが全てではありませんが、転職する1要因であったことは否定できません。
余裕があるときは許せることも、当時の私は睡眠時間も十分に確保できない程仕事に忙殺されており、
Aさんの素行は耐え難いものでした。
何よりも、Aさんがおしゃべりしている時間は当然Aさん自身の仕事も止まっているわけで、
そのしわ寄せはどこに来ているのかと考えると、なんとも言えない不公平感に苛まれ。
会社を神輿、社員を担ぎ手とすると、
全員が全力で神輿を担ぐわけではないと分かってはいても、
必死で担いでいる周りのモチベーションのために
笑ってぶら下がってるのではなく、せめて担ぐふり位はしろよ、というような感覚でしょうか。
転職して暫くしてある方と話している時に
「私、職場でついおしゃべりしてしまって怒られるの」とおっしゃって。
あ、Aさんがここにもいたと私は思い、
「なんで、仕事中におしゃべりするんですか?」とお聴きすると
「だって、あんまり静かなんだもの。耐えられないの。もっと和気あいあいと仕事したいじゃない」
とおっしゃる。
..。いやいや、貴方はそうかもしれないけれども、
集中して効率的に仕事をして早く帰りたい私のような人間からすると、迷惑この上ないのですがっ!
と心の中で叫び。
「そうなんですか」と言ってお茶を濁しましたが。
「そういうことか」と思いました。
と同時に
「それなら貴方は雑談しながら和気あいあいと仕事をすることが許される職場に行くべきです!」
とも叫んでおりました(心の中で)
何故心の中でしか叫ばないかというと、
「言ってもきっと仕方がない」と思うからで。
私の是非の判断は「人に迷惑をかけることはしない」ことが前提にあり。
その方と多分Aさんの是非の判断は「自分が楽しく過ごす」ことが前提にあり。
まさに「価値観が違いすぎる」ので、自分の価値観とは違いすぎる人からの「言葉」は響かないし、
恐らく反感を買ってしまうでしょう。
私が逆の立場で仕事中に
「もっとおしゃべりして楽しく仕事しようよ。ずっと黙っていて辛気臭い」
なんて言われようものなら、卓袱台ひっくり返します。
「私が楽しくおしゃべりすることで、まわりが和むのに。なんでわからないの?」とか
「私は楽しく仕事をしたいだけなのに何で注意されるのか分からない。」
から
「私がおしゃべりすることで、もしかすると仕事に集中できず困っている人がいるのかもしれない」
と自分で思わない限りはAさん自身の行動は変わらない。
だって、私には迷惑で耐えられないけれども、Aさんはおしゃべりすることが楽しくて仕方ないのだから。
(次週に続きます)
きりがない
「見た目は大切」
最近よく思います。
「でも見た目が全てではない」
最近よく思います。
今、特に若い世代で整形に対してのハードルがかなり低くなっているようです。
「見た目は大切」
私達は第一印象でその人の印象をだいたい決めてしまいますわね。
その人を知っていくうちにつれ、印象は変わっていくけれども
「こう見られたい」と思っているものとは違う
印象を周りの人にもたれていると感じているのだとしたら
髪型や服装や立ち居振る舞いを見直すべきだと私は思います。
(自戒を込めて)
ではもって生まれた容姿についてはどうでしょう。
悲しいかな私達は容姿でその人を評価してしまいがちです。
これはもう人、いや動物しての本能ですもの。
だからこそ、容姿に拘り、涙ぐましい努力をするわけですが、
「見た目」に支配されて、
特に若い世代で
「瞼を二重にしなければ外を歩けない。学校へも行けない」
「今の醜い顔のままで生きていけない」と
メンタルに不調をきたす人が増えていると聞きます。
親からすると、
整形も立派な手術だし、身体にメスを入れることになるし
施術する病院を間違えるととんでもないことになるのではないか?
という心配や
「生まれ育ってきてくれたそのままの顔では駄目なのか」
という寂しさや。
複雑な心境であると思います。
だけど、整形をすることで、
瞼を二重にすることで、我が子が健康な心を取り戻せるならと
整形に同意し費用を出す親御さんも多いと聞きます。
でも一度整形をすると、次から次へと欲が出て、
「鼻を削って高くしたい」
「頬骨を削って小顔にしたい」
「〇〇ちゃんのような顔になりたい」
と「きりがなくなる」と言います。
人の欲望は一度捉われるときりがないという典型的な見本です。
だけど特に成長過程にある10代の若者が、
例えば鼻をいじった場合、
鼻はまだまだ成長していくので、
とんでもなく変形してしまう可能性もあるということで、
綺麗になりたいが故に整形したのに結果、とんでもなく醜くなってしまうこともあるそうで。
「今私(僕)が不幸なのは、顔のせいだ。整形をして顔が良くなれば幸せになれる」という考えに捉われて、
心を病んでいたら、あるいは親しい人がそういう考えに捉えられているとしたら
信頼のおける形成外科医のいる病院を見つけて整形する、あるいは整形をすすめることは
或る意味トリアージと考えると仕方ないように思います。
その結果、自分に自信が持てて前向きになれるならとも思います。
ですが、「見た目が全て」ではなく
見た目よりも大切な事、「見た目を磨く」ことより価値があることが
世の中にはいっぱいあることを
その子たちが自分で気づくような世界を目の当たりにしたら、
その子たちの「自分の容姿」についての捉え方も随分変わるのではないかと思います。
とても難しいのだけれども、
せっかくこの世界に生きているのに、この世界は広くて色々な価値観がある世界なのに、
ひとつのことに捉われ、それで苦しむことはなんてもったいない!
そのことに気づくと、もう少し呼吸のしやすい世界になるのにと
伝えることはとても大事な事だと思います。
顔の質ではなく、心の質が人生の質を変えると思いませんか?
機会があれば、是非貴方の考えをお聴かせ下さい。
心のバリアフリー
先週日曜、発達障害関連のセミナーを受けておりまして、
いくつかのケース検討がありました。
どの事例も「こんな人いるよなあ」というもので、
発達障害の特性は強弱はあるものの、
誰の中にもあるものだと思いました。
だからこそわかりづらいし、
もし自分が「障害がある」と診断されたとしたら、
認めたくないし、ましてや公表するとなると、かなり勇気がいるよなあ。
と思います。
障害に限らず、自分が「できないこと」を認めることはかなりしんどい。
例えば「聞いて理解する」ことが難しいAさんがいたとします。
職場でAさんの上司が口頭で仕事の指示をしたとします。
Aさんは仕事の内容について質問するでもなく
「わかりました!」と仕事にとりかかるものの
何をやればよいかわからないのか、考え込み仕事が進まない。
あるいは間違った内容の仕事を一生懸命する。
なんてことがあった場合、
貴方がAさんの上司だとしたらどう思いますか?
「仕事が出来ないやつ」とジャッジして、
「どうすればいいんだろう」と困ってしまいますか?
でもAさんは聞いて理解するのが苦手なだけで、
書いて指示すると理解できて、
理解するととてもよい仕事をする人かもしれません。
Aさんがもし「自分が聞いて理解する事」だけが苦手な学習障害があり、
そのことを認識していて
それを貴方に伝えることが出来、
「書いて指示してください」と言えていたとしたら
貴方は「書いて指示する」という所謂「合理的配慮」をすることができますよね。
その結果、Aさんは貴方の部署にとってなくてはならない人になるかもしれません。
そうするとAさんの障害は障害でなくなるわけで。
そのためにはAさんがきちんと自分のことを話せるような周りの環境であることが
重要なのだと思います。
難しいことです。「心のバリアフリー」って言うのは簡単だけど本当に難しい。
ですが、Aさんが居ることは、
Aさんの周りにいる人が成長できるチャンスであり、
真の意味で「多様性」を受け入れるきっかけになるかもしれません。
「多様性」という言葉が無くなることが真の「心のバリアフリー」なのかもしれませんね。
見なくてはならないもの
早いものでなんとゴールデンウィーク!!
如何お過ごしですか?
この円安の中、ハワイ行き飛行機搭乗者は過去最高だそうで。
多い人は10連休だそうで。
そしてわたくし。
ずっとぱっとしない天気が続く中、
毛布を仕舞うために
洗濯するチャンスを狙っていたわたくし。
今日やっっと毛布が干せてほんと、幸せ―っ!
ええんやええんや。
細いなことで幸せになる自分、我ながらかわいいやつ。
GWは溜まっている家事が片付いたら、
いつか読もうと溜めている本を読みながら家でまったり過ごす予定のわたくし。
ええんやええんや。
さて、先週お話した村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
読み終えました。
そして今更ながらこの本が世界的に大ベストセラーになっていたことを知った私。
(ほんとすみません..。)
内容や感想については色々な考察がでているので、
ちょっと齧っただけの私如きが何を語るかっ!
と思いますので、ここでは小説の中にでてきて、
文庫本の帯にもなっている
「自分が見たいものを見るのではなく、
見なくてはならないものを見るのよ」という言葉について、
少しお付き合いください。
先週も触れましたが、
同じ環境に居ても人は見たいものを見ます。
更に言うと、人は見たいものしか見ません。
そして、
自分を守るために無意識に、あるいは意識的に「見たくないものは見ない」です。
でも、見たくないものの中には、
「見なくてはならないもの」も混じっていることがあり。
この「見なくてはならないもの」を見るのはとても勇気のいることです。
だって、折角塞がっている瘡蓋をはがすようなことだから。
きっと、少しからず血が出ることを知っているから。
でも私達は知っていますよね。
何のためにわざわざ見たくないものを「見なくてはならない」のかというと、
それはもう、これからの自分のためであることを。
「ありたい自分」になるためには、見なければならない。
そして、きちんと向き合って対峙しないと前に進めないのだということを。
勿論、見なくても誰からも責められたりしません。
だって、「見なければならない」と決めているのは、
自分だけだから。
ですが、「見なければならない」ものを逃げずに見てきた人は本当に強いことを、
私達は知っていますよね。
だけど、「見なければならない」けれども「どうしても見られない」こともあり。
見ると自分が壊れそうで、怖くて見られないことがあることも、
私達は知っています。
人間だもの。
それでも「見なければいけない」と貴方の事を思って言ってくれている人がいたら、
そんな幸せな事はないのではないかと思います。