日記
和を以て貴しと為す
先日とあるイベント会場に向かうエレベータに乗った時のこと。
タイミングよく閉まる直前のエレベータに乗れたのですが
エレベータは満員。
エレベータ内はほぼ同世代の女性で
一人だけ20代位の女性がボタン近くにいて
6階のボタンを押したので
7階で降りる一番ドアに近い場所に立っている私は
「私は7階で降りるのでどうぞ」
と場所を変わろうとすると
ツーンとしたまま一言も発せず私が譲った場所に移動。
人間が出来ていない私。
思わず「感じ悪っ!」
と声に出して言ってしまいました。
丁度6階に着いてその若者が降りるタイミングで言ってしまい
聞こえてしまったかどうか微妙でしたが。
6階のドアが閉まった瞬間、どなたかが声をあげて笑われ。
それをきっかけに「ほんと、感じ悪かったわ!」
と口々に。
「乗った途端、開くボタンをひっきりなしに押してやな感じだったわよ!」
と。
たった数秒でエレベータ内に妙な連帯感が生まれ、
私の心は穏やかになっていったのでした。
でも視点を変えてその若者から見ると
おばちゃんの集団を嫌悪するような嫌な経験があり
毛嫌いしているおばちゃん達に囲まれ耐えらないような心理状態だったのかもしれません。
あるいは、とても急いでいて焦っているのに次々と人が乗り込んできて
苛々していたのかもしれません。
もしかすると私の言動は押しつけがましく感じたのかもしれません。
一方、私はというと気を利かせて「彼女のために」行ったことに対し
彼女からなんらかの感謝の気持ちを示す行為を当然のこととして
(ありがとうと言葉にできなくても、軽く頭を下げるとか)
意識はしていませんでしたが期待していたのでしょう。
ツーンと無視するような態度に私自身が見下されたような気持にもなり
思わず声がでてしまった、というところでしょうか。
今回、彼女のとった態度は私から見ると
「感じの悪い」ものでしたが、
私が取った行動も大人げなかったように思います。
でもその場にいた大半の人は彼女の行動を不快に思い、
私のとった行動に共感したわけで
今回のケースはちょっと意味合いは違いますが
ふと頭をよぎったのは今回のような連帯感と同調圧力の違いです。
私が通っていた高校は聖徳太子建立のお寺の学校法人で、
登校時には校門をくぐるとすぐ目に入る
「和を以て貴しと為す」という聖徳太子の17条憲法にある言葉を
眺めながら校舎に向かっていました。
この言葉をどう解釈するかですが、
「調和」や「協調」という言葉を思い浮かべませんか?
古くから日本では
個人よりも集団の調和を優先する。
意見の違いよりも空気を読む行動が評価されやすい。
対立を避ける穏やかさが美徳とされてきたのではと思います。
だからこそ、私が感じた「連帯感」は
個人が組織や集団の価値観や意見、行動様式に合わせるような心理的な圧力
「同調圧力」とかなり近い位置にいるんですよね。
紙一重とも言えます。
本来「連帯感」は共感や支え合いの感覚であり、強制ではなく内発的な「つながり」であるはずが
協調性を強要する心理的圧力になりかねない。
では組織においてはどうでしょうか?
連帯が強く同調圧力が緩やかな組織では
「多様な意見が共存する協働型」組織が育ち
同調圧力が強く連帯が弱いと「恐怖による秩序」が生まれ、
心理的安全性(異論を述べても罰せられない環境)が保てず、
離職やメンタルヘルスの不調へとつながることは
想像に難くありません。
最近は
テレワークや副業解禁で「組織内のつながり」が弱まりつつあり、
個人の価値観やワークライフバランスを重視し
心理的安全性や多様な人材を活かすダイバーシティ経営への意識が高まってきているので
「同調」よりも「尊重」
「和を乱さないこと」よりも「多様な意見を和として活かす」ことが
「和をもって貴しと成す」なのだという価値観にシフトしていくことが
これからの日本にとって重要なのだと思います。
