日記
人間万事塞翁が馬
今日、たまたま堺市立総合医療センターの前を通ったら法被姿の若者がうろうろしていて、
「今日だんじり祭りなのっ???春にっ???」と頭の中が?でいっぱいになっていたのですが、
補修後のお披露目で今日引き回しがあり、
横倒しになる事故があったのですね。
11人負傷で3人が重傷だとか。
例年30~50人程度で引くところ、今回はお披露目ということもあり他からの応援もあり100名程度で引いてたとかで、
交差点で曲がり切らずバランスを崩して倒れたの事でした。
こんな時、「いつもより倍以上の人数で引くって、最初から無理やと思ってたんや!」と後だしジャンケンのようにおっしゃる方がでてくることが多いのですが(今回はいらっしゃらないかもです、あくまでも一般論として)
無理やと思った時点できちんと意見しなはれー!!!
はあはあ。。失礼しました。(私、あとだしジャンケンがほんま嫌いなんです。すみません)
岸田首相の演説先での事件があり、黙秘している犯人は24歳の若者なのですね。
どんなことが語られるのかこれから明らかになっていくでしょうが、
安倍元首相を銃撃した山上被告に対する減刑署名は1万3千を超えているらしく、英雄視している人やファンレターを書く人もいるのだとか。
色々な思いが交錯し、やるせない思いです。
安倍さんもまさか自分の命が絶たれることになるとは数時間前まで夢にも思わなかったでしょうし、
本当にいつなにが起こるかわからないですね。。
このタイミングで私の話をするのは甚だ僭越ではございますが、
昨年7月のある朝、海鮮粥を呑気に食べていた私は、その数分後に痛みにのた打ち回り、数時間後には救急車で運ばれ腸閉塞の緊急手術をすることになるなんて、夢にも思いませんでしたもの。。
ほんまに人間、塞翁が馬。
幸不幸は予測がつきません。
手術後麻酔から覚めてベッドから天井を見ながらはたと気づきました。
「たまたま今回は運よく助かったけれども、もしあの時救急車を呼ばなかったら意識を失って腹膜炎になってそのまま死んでいたかも。。」
「自分でコントロールできるうちはいいけれども、認知症になったらどうするの?」
「動けなくなったらどうするの?」
いざという時の準備が何もできていないわ、私!
ということで、退院後「終活」について真剣に考え、勉強するようになったわけです。
いざというときにどこに連絡すればいいの?
誰も居ないところで意識がなくなった場合、どうやったら発見してもらえるかな?
終末医療はどうするの?相続は?死後整理は?お葬式やお墓は?
自分の意識がしっかりしているうちに、
リビングウィル(人生の最終段階における事前書)や死生観をきちんと伝えるためのエンディングノートを作っておかなければっ!
等々。知れば知る程、今から準備しておくべきことがでてきてそわそわします。
貴方はいかがですか?
「色々不安はあるけれども、何を準備したらよいのかわからないっ」
ということはありませんか?
そんな貴方のために安心できるネットワーク作りをしようと今色々準備しております。
またご案内しますので、
宜しくお願いいたします。
報道の自由と重み
前回の「捉え方の背景にあるもの」で人各々基準が違うというお話をしましたが、
基準が違うことを考慮したコミュケーションのとり方を
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12年前の3月11日は東日本大震災が発生した日であり、多くのメディアで報道特集が組まれていたので
当時の映像を再度目にした方も多かったと思います。
大切な人を失うと
時間とともにその人を思い泣く時間は日々の営みの中でだんだん減っていくけれども
心にぽっかり穴が開いたような喪失感は何年たっても埋まらず
ふとした時に思い出すと、なんとも言えない悲しみに圧し潰されそうになるということはありませんか?
慟哭のような悲しみは薄れていくけれども、心に負った深い喪失感は本当に癒えないなあと思います。
安否が確認できない家族がいらっしゃる場合、心の置き場所が定まらず、本当に辛いことだと思います。
震災は過去のものではなく、まだまだ復興途中ですね。
流れている当時の映像を正視できない方もいらっしゃったのではと思います。
実際当時の映像にはお亡くなりなった方の映像も沢山あったそうですが、
遺族の方の心情を考慮し一切報道しなかったと聞きました。
これに対し、今回の震災被害を正確に報道したことにはならず、
どれだけ悲惨な被害を人類に齎したのかを後世に正確に伝えるためにも
報道自粛はするべきではないという意見もあったようです。
今、放送法の政治的公平性が話題になっていますが、メディアの中でテレビの比重がどんどん少なくなっていく今の時代の論点としてどうなのか?と思います(あくまで私の個人的意見です)。
が、報道により本来私達が知るべき「事実」が簡単に捻じ曲げられることも事実で、
その監督を総務省が担っている日本においては時の政権に都合の良い報道がなされる可能性を拭い去れない
ことは大きな問題だと思います。
ロシアのウクライナ侵攻の中、
ウクライナがロシア国内を攻撃したときインタビューを受けたロシアの住民が
「ウクライナは自国が攻撃されることがどんなに酷いことなのか知るべき!
一度攻撃されてみるとわかるわよ!どんなに酷いことなのか!」
と話していてぞっとしました。
「事実」はひとつなのですが、「真実」は時の権力者や時代背景、受け手の捉え方によって違ってきて
目の前にある事実には何の意味も持ちませんが、真実はその人の捉え方によって意味づけがなされますよね。
人は同じ事実を目の当たりにしても見たいものだけを見るので、
その人にとっての真実はその人から語ってもらわないと分からない
ですよね。
で、「事実」がある権力者によって都合がよいように捻じ曲げられていて
そのことに気づかないとしたら。
簡単にコントロールされていますよね。
そういうことは平然と繰り返されていることは歴史が証明しているし、
結構身近でも「フェイクニュース」のように巷に溢れています。
こう考えてくると時の権力者の縛りをいけない「報道の自由」は本来あるべき姿だけど、
フェイクに踊らされないようにするためには
正しい規制は必要とも思います。
新型コロナの感染者が各県で確認され始めた時、
岡山県で初めて感染者となった女性が報道により苦しめられ、自殺したそうです。
メディアの力は人を幸せにもするし、殺しもする。
本当は今日、対話型組織開発の背景理論にあるアドラーの目的論の話をしたかったのですが
昨日東日本大震災の当時の映像を改めて目の当たりにし、
心がざわざわしていたのでこのような内容になってしまいました。
次回、本屋さんの心理学書コーナーで平積みされているほど人気の「自己啓発の父」アドラーの目的論についてお話したいと思っております。
宜しくお願いいたします。
捉え方の背景にあるもの
春が近づいてきましたが、
三寒四温、温度差に体調を崩しやすい時期です。
くれぐれもご自愛ください。
アメリカの俳優ウィル・スミスが昨年のアカデミー賞授賞式で、
同席していた妻であるジェイダ・ピンケット・スミスの丸刈り姿を茶化したコメディアンを平手打ちにした事件をご存知でしょうか?
ジェイダが丸刈りにしているのは脱毛症のためで公表されていたそうです。
ウィル・スミスは罰として今後10年間アカデミー賞に関わる全てのイベントや番組に出席できなくなりましたが、
この時の日米の反応の違いが興味深いものでした。
勿論暴力をふるったことに対して容認できることではありませんが、
貴方はウィル・スミスのとった行動をどう思われますか?
日本のSNSでは
「奥さんを守ってかっこいい」「男はこうじゃなくっちゃ!」
等とウィルに対し好意的なコメントが少なくなかったようです。
ですが、アメリカではウィルに対し否定的なコメントが多く、
その中に
「なんでジェイダが茶化されたことに対し、ウィルが対応してしまったのか?
ジェイダの人格を軽んじている」というコメントも少なからずあったようです。
ジェイダが自分の意思を示す機会を、ウィルが奪ったというわけです。
なんとっ!
このコメントを読んだとき私はもう、目から鱗でした。
そんなこと1ミリも思いませんでしたもの。
それどころか「ウィル・スミス、素敵!」とすら思っていましたもの。
勿論暴力はあかんのです。
力で解決しようとする発想はとても恐ろしいことです。
でも「大切な人を守るために頑張った」彼はなんて素敵なんだろうと思っていましたもの。
で、この件をネットで色々検索してみると「有害な男らしさ」という言葉がでてきました。
ウィル・スミスのとった行動は、「男なら女を守るべき」という古い価値観にとらわれていて、
それは突き詰めていくと「俺の女に手を出すな!」のような「女は男に従属している存在」と言っているに等しい
というわけです。
なるほど。
でも、私は男とか女とか言う前に、
「大切な人が侮辱されていたら自分が侮辱されたように憤る」ことは愛がないとできないし、
そんな風に人を愛することができる人を羨ましくも思うのです。
こんな風に1つの出来事に対し、捉え方は様々ですよね。
それは自分の中に判断基準があって、
その基準は今まで生きてきた環境や、経験してきたこと、そして人種や性別や国籍等、様々なものが影響しあって作ってきたものなので、人と違って当たり前なのですが、そのことに気づかず自分の基準、価値観を押しつける人のなんと多いことか(〇コちゃんに叱られてください)。
勿論、人それぞれ意見があって、それを議論しあうことはとても建設的なことです。
が、忘れてはならないのは「人それぞれ基準や価値観は違う」ということです。
仕事の中で
例えば部下に「できるだけ早く〇〇さんにアポイントをとってほしい」と指示したとします。
ところが部下は10分経っても20分経っても〇〇さんに連絡を取った気配がありませんし、報告もありません。
業を煮やして「アポイントとれたの?」と部下に尋ねると、
部下は「できるだけ早くということでしたので、急ぎの仕事を片付けてからすぐに〇〇さんに連絡するつもりでした」
と言います。
むかむかむかっ
「できるだけ早くと言われたら、すぐに連絡するやろうっ普通!」なんて声を荒げてしまうかも知れません。
でも指示するときに例えば「今から10分以内に〇〇さんにアポイントの連絡をしてくれ」と数字という共通の基準を使うとこんな風に余計なストレスを感じる必要はなくなりますよね。
貴方の「普通」は私の「普通」とは違うのです。
違って当たり前なのですが、
その背景にあるものはとても深い。
その背景にあるものをお互いに尊重できれば、もっと生きやすくなると思います。
自由と責任
明日成人の日ですね。
成人の皆様おめでとうございます。
2022年4月から18歳以上が成人になったのですね。
18歳かあ。
高校卒業して社会に出る人、進学する人、丁度人生のひとつの節目を迎える歳ですね。
私には遠い昔の話ですが18歳というと、
ガチガチに管理されていた女子高からとても自由な大学に入学したての頃で
今思うとまったく子供で不安定だったなあと思います。
ですが、振り返ると今の私の礎を築いてくれた大切な時期だったと思います。
大学入学したてのオリエンテーションで学部の教授が色々話をしてくださった中で
今でも覚えているのが
「自由であることは責任を伴うこと」
という言葉です。
「私達には選択の自由があり、これから貴方たちは数えられないほどの選択をすることになる。
その選択は貴方自身が望んで選んだものなのだから、そのことに責任を持たなければいけない」
みたいなお話をされたように記憶しています。
同回生(大学では何年生ではなく何回生というも当時の私にはカルチャーショックでしたがこの呼び方は関西だけのようで)はみんな優秀で、ずっと劣等感の中過ごしていたような気がします。
優秀というのは学力だけではなく、ものの捉え方や思考、行動力や話し方、その人の持つ素養が私より数段優れている、というような感じでしょうか。
だからこそ大いに学び、色々な事を吸収できる絶好の機会で恵まれた環境だったのに
その頃はそのことに全く気付かず、色々な事に向き合えず逃げていたように思います。
それでも周りから受けた知的刺激はしっかりと私の中に根付き、社会に出てからの指針になっているように思います。
自由であることを謳歌した時期でもあり、その責任について一生懸命考えた時期でもありました。
社会に出て、組織の中で過ごしているうち、自分の価値観からすると「おかしいんじゃないの?」と思う事でも飲み込むようになり、いつの間にか考えることを忘れるようになっていったような気がします。
自由は責任を伴うけど、自分でコントロールが出来ない環境では自由はないですが責任は伴わず楽なんですよね。
なにかあれば自分以外の「誰かのせい」に出来るので。
最初はコントロールが出来ないことに抗って苦しいのですが、だんだん慣れてしまい楽な方に流れてしまうようになっていったように思います。
「これではいかん」と思いつつ安定している今の生活を捨てる勇気を持てず、
日々の忙しさの中にいつの間にか考えることをやめてしまっていました。
が、あるとき何故か「えいやっ!」と後先を考えず会社を辞めてしまいまして今日があります。
組織内開発について学ぶと「おかしいんじゃないの?」と思った時に行動を起こすと、
1人の行動から始まってもその企業の文化を変える好機になり得るので
「私なんかが行動を起こしてもなあ」と思わず行動を起こしていればとも思いますが
今は自由に色々な事を考え行動するのでとても私らしく生きているなあと思います。
私らしさって何だろう?と思われている方、
是非ご一報ください。
一緒に自分探しを始めましょう!
大学を卒業してすぐ、私は誰にも言わず、父にも言わず、母と住み慣れた故郷を離れました。
両親は離婚し、私はその後故郷に足を踏み入れたことはありません。
故郷は私にとっては孤独で辛い思い出が詰まった場所でした。
ですが、つい先日、ひょんなことから昔よく遊びに行っていた幼馴染のおうちが素晴らしい場所に生まれ変わっており、
その立役者が幼稚園時代から仲良くしてもらっていた幼馴染だと知りました。
ホームページに写っている彼女の写真を見た途端
懐かしさとともに彼女と遊んだ楽しい思い出がいっぱい蘇ってきました。
ああ、私は独りではなかったし、いっぱい笑っていたなあ。
小さいころから彼女は音楽を愛し、ピアノや声楽を頑張っていましたが初志貫徹して素晴らしい音楽家になっていました。
すごいなあ。彼女を誇りに思います。
敷居が高かった故郷ですが、懐かしい顔を見に久しぶりに訪ねてみようと今は思っています。
生まれ変わった幼馴染のおうちはこちらです。
HOME | 河野邸Kawanotei Art Gallery & Laboratoire 和泉市にあるアートギャラリー、ショップ
近くには久保惣記念美術館もありますので、興味のある方は是非お立ち寄りください。
私の自慢の幼馴染は佐古(旧姓河野)純子さん。
かわじゅん、辛い思い出しかなかった故郷を懐かしい故郷に変えてくれて ありがとう。
For the rest of your life.
新年明けましておめでとうございます。
今年も何卒宜しくお願い申し上げます。
お正月なので、未来のことを書こうと思います。
「未来のために」を英語で訳すと「For the future」ですが、
年齢のせいか私にとっては「For the rest of my life.」がしっくりきます。
「何のために生きているのかわからない」
「毎日が楽しくない」
「生きていても仕方がない」
カウンセリングに限らず、今までよく聴いてきた言葉です。
そして「自分が嫌いなんです」という言葉も。
未来は今日の続きで、今日は昨日からの続き。
「当たり前のことやん!」ですが、
恥ずかしながら私がこの事を私の中に落とし込めたのはついこのあいだです。
今日生きていくだけで精一杯という状況でも諦めずに愚直に頑張っていると
明日は変わらないかも知れないけど、
5年後、10年後に「あの時頑張ったから今がある」という時がきます。
「こないこともあるんじゃないの?」と思うかも知れませんが、
今日諦めてしまうと「あの時頑張ったから今がある」はまず来ない。
それでも、わかっていても頑張れないときがありますよね。
頑張れないほどの悲しみを抱えた人に、
頑張ってもどうしようもないことが立ちはだかっている人に「頑張れ」とは言えないですが、
生きている限り明日は必ず来ます。
当たり前の事だけど、そう思う事すら出来ない時もあるんですよね。
でも生きていれば明日は必ず来て、明日は笑えるかも知れない。
明日は笑えないかも知れないけれど
明後日は笑えるかも知れない。
生きていきましょうよ。
For the rest of my life.
これからどんなふうに生きていこうか?を考えるとき
あるドラマのワンシーンを思い出します。
結構前ですが「すいか」というテレビドラマがあって
街中で高校生位の男の子が、
歩いている同い年位の女の子に向かって
叫び声をあげてナイフを振りかざし走り寄るシーンがあって
それを見つけたともさかりえ扮する主人公の一人が止めに入るのですが、
その時に彼女はその男の子を抱きしめて
「人は刺すものじゃなく抱きしめるものなんだよ!」
と叫ぶんです。(かなり前のドラマなので実際とは違うところもあるかもしれませんがご容赦ください)
死ぬ前に自分の人生を振りかえった時
「いっぱい人を抱きしめたなあ」と言えるように生きていきたいと思います。
でもその前に自分自身を愛さなきゃ。
まずは欠点も失敗も何もかもひっくるめたまるごとの私を愛することから始めないとね。
まずは
Love Yourself!
2023年
全ての人にとって良い年になりますように。