日記
報道の自由と重み
前回の「捉え方の背景にあるもの」で人各々基準が違うというお話をしましたが、
基準が違うことを考慮したコミュケーションのとり方を
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12年前の3月11日は東日本大震災が発生した日であり、多くのメディアで報道特集が組まれていたので
当時の映像を再度目にした方も多かったと思います。
大切な人を失うと
時間とともにその人を思い泣く時間は日々の営みの中でだんだん減っていくけれども
心にぽっかり穴が開いたような喪失感は何年たっても埋まらず
ふとした時に思い出すと、なんとも言えない悲しみに圧し潰されそうになるということはありませんか?
慟哭のような悲しみは薄れていくけれども、心に負った深い喪失感は本当に癒えないなあと思います。
安否が確認できない家族がいらっしゃる場合、心の置き場所が定まらず、本当に辛いことだと思います。
震災は過去のものではなく、まだまだ復興途中ですね。
流れている当時の映像を正視できない方もいらっしゃったのではと思います。
実際当時の映像にはお亡くなりなった方の映像も沢山あったそうですが、
遺族の方の心情を考慮し一切報道しなかったと聞きました。
これに対し、今回の震災被害を正確に報道したことにはならず、
どれだけ悲惨な被害を人類に齎したのかを後世に正確に伝えるためにも
報道自粛はするべきではないという意見もあったようです。
今、放送法の政治的公平性が話題になっていますが、メディアの中でテレビの比重がどんどん少なくなっていく今の時代の論点としてどうなのか?と思います(あくまで私の個人的意見です)。
が、報道により本来私達が知るべき「事実」が簡単に捻じ曲げられることも事実で、
その監督を総務省が担っている日本においては時の政権に都合の良い報道がなされる可能性を拭い去れない
ことは大きな問題だと思います。
ロシアのウクライナ侵攻の中、
ウクライナがロシア国内を攻撃したときインタビューを受けたロシアの住民が
「ウクライナは自国が攻撃されることがどんなに酷いことなのか知るべき!
一度攻撃されてみるとわかるわよ!どんなに酷いことなのか!」
と話していてぞっとしました。
「事実」はひとつなのですが、「真実」は時の権力者や時代背景、受け手の捉え方によって違ってきて
目の前にある事実には何の意味も持ちませんが、真実はその人の捉え方によって意味づけがなされますよね。
人は同じ事実を目の当たりにしても見たいものだけを見るので、
その人にとっての真実はその人から語ってもらわないと分からない
ですよね。
で、「事実」がある権力者によって都合がよいように捻じ曲げられていて
そのことに気づかないとしたら。
簡単にコントロールされていますよね。
そういうことは平然と繰り返されていることは歴史が証明しているし、
結構身近でも「フェイクニュース」のように巷に溢れています。
こう考えてくると時の権力者の縛りをいけない「報道の自由」は本来あるべき姿だけど、
フェイクに踊らされないようにするためには
正しい規制は必要とも思います。
新型コロナの感染者が各県で確認され始めた時、
岡山県で初めて感染者となった女性が報道により苦しめられ、自殺したそうです。
メディアの力は人を幸せにもするし、殺しもする。
本当は今日、対話型組織開発の背景理論にあるアドラーの目的論の話をしたかったのですが
昨日東日本大震災の当時の映像を改めて目の当たりにし、
心がざわざわしていたのでこのような内容になってしまいました。
次回、本屋さんの心理学書コーナーで平積みされているほど人気の「自己啓発の父」アドラーの目的論についてお話したいと思っております。
宜しくお願いいたします。