日記

2025-04-20 17:00:00

知らず知らずのうちに

先日同じマンションに住む小学校の教師をされていらっしゃった方と立ち話をしまして、

今から10年ほど前に母校の先生をされていたことがわかり

その時凄く「荒れていた」事を知り衝撃を受けました。

(今は退職されていて状況はよくわからないそうですが)

 

私が小学生だったのは遥か昔のことですが、

綿織物の盛んな町で、近所の家のほとんどが自宅の横に工場をもって

朝から晩まで「織物を織る機の音」が響いていました。

ちょっと山に入ると畑や田んぼが広がって

貧しいながらものどかな町で、

今思うと多少の貧富の差はありましたが、

同級生は同じような価値観の中で育っていたように思います。

だから「いじめはなかった」というとそうではなく

やんちゃな男の子達は「弱い者いじめ」をしていました。

1人ターゲットになっている男の子がいて

幼稚園が一緒で近所だったこともあり、

幼稚園の頃はその子のおうちに遊びによく遊びに行っていました。

 小学校に入り、

私はなんというか「勉強ができる優等生」になり

「一目置かれる」ことが「一番大切」なことだったので、

その子と「仲良し」だと思われることが怖く、

口も利かないし「いじめられている」事を知りながらも

見て見ぬふりをしていました。

その子はやがて所謂「知的障害特別支援学級」に入り、

私はほっとしたことを憶えています。

 

私最低でした。

最低でしたが、その頃はなんと言いますか

「自分の居場所を作ること」に必死で

「生きていくのに必死」だったように思います。

 

何故母校が荒れていたかというと、

どんどん開発が進み住宅やマンションが次々と建設され

新旧の住民が混在する形となったので

育った環境が大きく異なる色々な価値観を持つ児童が混在することになったことで

大きくは「地元民」と「新住民」の対立があったとのこと。

 

大人でも色々あるのに子供ともなると況やです。

 

今新しい環境に慣れずに、四苦八苦されていらっしゃる方も多いのではないかと思います。

私達は知らず知らずのうちに色々なもの、他人を自分の基準で比較してしまいます。

自分と他人との比較をまず無意識に行ない

自分が優位であると感じた時

人間関係の構築が出来ていない環境では特に

自分の居場所を確保したように思い、

承認欲求が満たされ

漠然とある不安から少し解放されて、安心して息をすることが出来る。

そして、知らず知らずのうちにまわりを

同僚や

家族や

友人や

上司や

組織そのものを過小評価し

優れている自分はジャッジしコントロールする資格があると思う。

 

そんな人、周りにいませんか?

いますよね。

実は私自身、そんな人でした。

「ああはなりたくないようなあ」と思いながら

知らず知らずのうちに

「ああはなりたくない人」になっていて

「周りに誰も居ない」ことに気づいたのが数年前です。

 

もし

「人には色々な考え方があり、価値観がある」こと。

そのことを理解し、受け入れることが出来ていれば

そして自分の価値観で

自分の稚拙な、勝手な基準で優劣をつけることが

どれだけ愚かな事なのかに早くから気づいていれば

私の生き方は大きく変わっていたのだと思います。

 

でも自分と違う価値観の人を受け入れる事は

特に大人になってからは

とても勇気がいることだし本当に難しい。

 

あの幼い日、仲良しだった男の子は

いじめられながらも決して私に助けを求めることはなかったし

話しかけもしなかった。

 まだ男の子のうちに遊びに行くほど仲が良かったころ、

その子には歳の離れたお姉さんがいて

 お昼にオムライスを作ってくれたことがありました。

 

そのオムライスにはチキンとグリンピースが入っていて

綺麗に整えられた卵の上にかかったケチャップが嬉しくて

色々なところでオムライスを食べてきたけれども

あの味を超える「美味しい!」と思えるオムライスにはまだ出会えていません。

 

あのオムライスを作ってくれたお姉さんの気持ちを

幼い私は知る由もなかったけれども

今なお、オムライスを食べる度に

後ろめたいような苦い感覚とともに思い出します。

 

今の若者は概ねジェンダーに対する偏見はなくなっているそうで

それは幼いころから偏見のない世界の中で生きてきたからだと思います。

「多様性の理解」という言葉はまだまだ紛争が絶えないこの世界では白々しく思うけれども

「みんな違ってみんないい」環境の中で育てば

いつの日か本当の意味でダイバーシティが体現され、

お互いに尊重し合える安心安全の場を気づくことが出来るはずです。

 

あの幼い日には戻れないけれども、懺悔をこめて

 「みんなと違っている」ことで悩んでいる人が笑顔になってくれるよう

「違っていい」ことを命ある限り伝えていきたいと思います。

 

だけどきっとオムライスを「美味しい!」と笑顔で頬張る日はこない。

それを認めることが私にはとても重要な事なんだと思います。